線路脇の部屋
もう記憶が薄れてしまっている。何しろ1年住んだだけの部屋だったから。大学に通った4年間の間、僕が日本で過ごしたのは3年間だ。残りの1年間はカナダに留学していた。帰国が迫って来ていたが、卒業する為には少なくとも後1年間は大学に通わなければならない。渡航する直前まで住んでいた部屋は既に引き払っていた。荷物だけ急いでパッキングして、退去する部屋の片付けはほとんどせずに空港まで行ったから、後のことは日本にいる自分の家族に任せることにしていた。後から聞いた話だが、家族に言わせると部屋の片付けはほとんど終わっていなくて大変だったとのことだった。まだ日本にいる間にできるだけ片付けたつもりだったのだけど、既に気持ちだけ飛行機に乗って未踏の地にいるつもりだったのかもしれない。
実家から大学までは車で1時間以上かかった。授業の数は入学当初よりも少なくなっていたから通えなくはなかったが、日本に帰って来た時点ではまだ車の免許を持っていなかった。原付の免許しかなく、それでは自動車専用道路は走れない。一度だけ原付に乗って下道を実家まで帰ったことがあるけど、片道で6時間くらいだった。午前中に出発して明るい間に帰るつもりだったのに、いつまで経っても知っている景色に出会えない。当時はまだ折り畳みの携帯電話を使っていて、現在のように精細な地図を確認しながら走ることはできなかった。出発する前日にパソコンで地図を調べて、一つの画面に収まらない部分を含めて数枚分になった地図をプリンターで印刷した。それらをテープで繋いで鞄の中に入れて出かけた
ガソリンを3回満タンにして、結局夕方近くにようやく実家に到着した。その後は実家に置いてあった中型のバイクに乗り換えて、自動車専用道路を走って一人暮らしをする部屋まで戻った。二輪免許を取得したのは実家に戻った時ではなく、実家に原付で戻る前だった。大学3年生になって迎えた正月は、カナダで過ごしていた。それから帰国するまでの間に生活する部屋を探してもらった。空港に降り立った後にすぐに向かったその部屋は、1DKの綺麗な部屋だった。壁紙は白く清潔感があって、1人で生活するには充分な広さがある。駐輪場には原付を停めていた。大学にもその原付で通って、自動車の教習所にもそれで毎日通った。合宿免許でもないのに、ほぼ毎日通って半月ほどで全ての行程を終えることができた。免許証の書き換えに行ったその足で、今度は二輪の教習を申し込みに行った。
カウンターに行って要件を話す。免許証を提示してと言われたので、財布から取り出して目の前に置いた。係員がそれを手に取って内容を確認している。すると何か不可思議な文字でも見るようにそれを睨んだ後に、僕に視線を向けた。「これ日付が今日になってますけど?」と疑問を投げかけてきた。僕は正直に「ついさっき新しい免許証を貰って来ました」と言った。その後、受付のその人がどんな反応だったのかは覚えていないが、申し込み自体は滞りなく進んだ。車の免許を取ったからと言ってすぐに自分が運転する1台が手に入るわけではない。乗り慣れた原付で、申し込んだ数日後からまた毎日教習所に通う日々が始まった。そして2週間くらいで教習が終わった。書きながら思い出したのだけど、卒業検定の日は大雨で検定は途中で中断になった。溜まりに溜まった物を吐き出した豪雨の後は、雲が切れて青空が見えていた。無事に検定に合格し大型二輪の免許も取得できた。
そして原付で実家に帰る話に繋がる。実家で入れ替えて乗ってきた400ccのバイクを駐輪場に停めて、卒論を書くために頭を切り替えた。部屋の窓の向こうには線路があって電車が何度も行き来していた。特に騒音だと思うほどではなく、逆にこの先何度も住むことにはならないだろうからとあまり気にはしなかった。そして卒業式の前には部屋を引き払って実家に戻っていた。白いハイエースに荷物を積んで、手伝ってくれた家族と交代しながら運転した。僕はもう二度とその街で暮らすことはないだろう。良いこともそうでないことも色々経験したけど、線路脇の部屋と外の世界で起こった出来事がなければ今の自分はないと確かに言える日々だった。