鉄棒の後で
自分の子どもを膝の上に抱えてブランコに座ることは、息子が生まれる前から思い描いていた光景の一つだったかもしれない。家族が増えた時の妄想には終わりがなくて、当時は考えられる限りの楽しみを頭の中で満喫していたつもりだった。最後にブランコに座ったのはいつだったろうか。はっきりとは思い出せないけど、座面に問題なく下半身が収まっていたはずだ。そう考えると数年前とはいかないかもしれない。10年以上経っていてもおかしくはない。春はまだ過ぎ去っていないはずなのに、太陽の光は容赦なく照りつけている。それは袖を捲った僕の色白の肌を目に見えない速度で焼いて、気付いた時にはほんのりと赤みが差している。日に焼けた肌が色を保っている時間は長くはない。夏が来るとしても、もう少し待っていて欲しい。
午前中に電車で数駅先まで出掛けた。ベビーカーに息子を座らせて、親子3人で歩いた。電車を降りて程なくしてその公園に辿り着く。これまで何度も来たことのある公園だ。息子も初めてではない。でも彼が覚えているかどうか定かではない。ベビーカーの中で足先だけに光が当たって、その顔は少し不満気だ。小刻みな凹凸を繰り返す地面の上を、車輪が音を立てながら転がって行く。秋には黄色い葉を茂らせる銀杏の樹々も、今日は緑の葉を風に揺らしていた。それらがつくる日陰を僕らは進んだ。前方には吊り輪や鉄棒が見えてくる。それ以外にも身体を動かす為の器具がいくつか設置されていた。手すりに足を乗せて柔軟体操をしている人もいるし、吊り輪にぶら下がって身体を伸ばしている人もいる。そして僕も空いた吊り輪を握って身体を持ち上げようとした。
吊り輪に掴まっていても、足の裏は地面に付いたままだ。腕を伸ばしてぶら下がるには、膝を曲げて足を浮かせなくてはならない。その通りにやって重力を利用し身体を伸ばした。背骨が引き伸ばされる感覚がある。1日中そんな感覚でいられたらと思うけど、2本の足で立たなければならない。自分の足で立つということをこれまで何度も繰り返して来たけど、無意識に繰り返していたことに敢えて意識を向けることも時々は必要なのかもしれない。当たり前だと思っていることは、他の誰かにとってはそうではないのだから。身長が少し伸びたかもしれないと何となく思いながら、今度は更に奥に設置してある低めの鉄棒に向かった。目当てのブランコはまだ先なのだけど、その前に逆上がりをしたくなった。軽やかに、とは言えないまでも息子に見せてカッコ悪くはならないだろうと思った。
両手で鉄棒を握る。手幅は肩幅と同じくらいにする。地面を蹴って何度か腕で身体を鉄棒に一気に引き寄せてみる。足はまだ振り上げない。自分の身体が回転している場面を繰り返し頭の中で思い描く。但しいつまでもそうしているわけにもいかない。待っていても僕の身体が勝手に持ち上がることはないのだから。足を引いて鉄棒から距離を取った。そして一気に距離を詰めながら、へそを鉄棒に引き寄せた所を軸にして、地面を蹴って回ろうとした。身体が上がった気がしたが、実際はそのまま元に戻っただけになった。勢いが足りなかったのかもしれない。久しぶりだったからか慎重になり過ぎた。僕はもう一度だけ成功した場面を思い浮かべて、今度はさっきよりも勢いをつけて蹴り上げた。
蹴り上げた勢いのまま、両足は揃って僕の頭側に出ていた。本来なら途切れることなく上半身まで起き上がれるはずだが、鉄棒にぶら下がったままになってしまった。でもまた元に戻る気はなかった。何とかして上半身を起こして着地したい。公園の真ん中には野球場があって、そこで汗を流す人達の威勢のいい掛け声が聞こえてきた。もちろん応援されているのは僕ではない。分かり切ってはいながら何だか背中を押されているような気がして、少しだけ身体を揺らした反動で上半身を起こした。その姿勢で静止するつもりが、勢い余って地面に降りてしまった。失敗ではない。そう思いたい。一連の様子を撮影した動画を見返したところ、タイミングよく野球を楽しむ人達の掛け声と同時に逆上がりが終わっていた。息が少し上がったまま歩き出して、尻が座面に収まりきらないブランコの元に向かった。