玄関が開く音

 去年から在宅勤務が始まって1年以上が経過している。会社に出勤せずに仕事を家で完結させるという経験は今までなかったし、そんな風にして成り立つ仕事があるとは想像していなかった。朝起きて電車に乗って、オフィスにほぼ缶詰状態で働き、また電車に揺られて家に帰る。日常の買い物は仕事帰りに直行するか、もしくは週末にまとめてというのが定番のスケジュールになっていた。それが突然出勤することが無くなり、家でパソコンを広げることになる。通勤時間という考え方が無くなるし、かなり融通の効く時間の使い方ができるんじゃないかと期待していた。もちろん在宅勤務の目的は、自分達の身を守ってリスクから少しでも遠ざけるという前提ではあるけど、だからといって全く買い物をしないわけにもいかない。

 基本はずっと家にいてキーボードを叩いている。合間の休憩で近所を少し歩く程度なら外出するが、ゆっくり買い物をする程の余裕はない。上司や同僚が近くにいないからといって、仕事としてやるべきことを疎かにできないのは当然のことだ。彼らの目から見えない場所であったとしても、やるべきことをやっているはずだという信頼も、在宅勤務を成り立たせている重要な要素ではないかと思っている。信頼に応えたいというよりは、その信頼を裏切るようなことだけはしないようにしたい。でも僕の息子までずっと家に閉じ込めておくわけにはいかない。土管のある小さな広場に先に彼が妻と出かけ、頃合いを見計らって2人が家に帰ってくる少し前に僕が駆け付ける。そして彼を抱っこして家まで帰ることがよくある。

 午前中の買い物は妻に任せることが多い。体重が増え続ける息子を抱っこしながら、買った荷物を運ぶのは楽ではないだろう。それでも米を買う時には一緒に行くようにしている。5kgの米は僕が持っても重いと感じる。米だけを買いに出かけることはほとんどなくて、他の食材を買うついでに手に入れている。そうすると両手が塞がるし、重量のバランスも悪くなる。必要な物を事前に確認しておけば、買い物の時間自体は長くならないし、家を長時間空ける必要もなくなる。移動する距離も短いので時々はそうして昼間に出かけることもある。オフィスにいた頃と比べるとかなり変則的な時間の使い方だと当初は思っていたけど、もう今はそれが当たり前になった。

 買い物に出かけた2人が帰って来たようだ。玄関からの呼び出し音が聞こえる。機械の調子が悪いのか音が鳴らずに気付かないこともあるが、今日は問題なさそうだ。部屋の受話器で返事をしたらすぐに押入れを開ける。2段に仕切られた下段に座って引き戸を閉める。座ると言っても、僕の体格で普通に座るには窮屈な空間だ。背中を丸めて壁に寄りかかり膝も曲げて座らなければならない。扉と扉の僅かな隙間から部屋の明かりが漏れ入ってくる。外からは見えないように扉の位置を調節して、そのままそこで息を潜めていた。すぐに玄関を上がって妻と息子がやってくるはずだ。

 名前を呼ぶ声が聞こえてくる。妻は僕がいる場所を分かっているんだろう。床に膝をついて抱っこ紐のバックルを外す音が聞こえている。少し隙間を開けて外を見た。息子はまだこちらに気付いていないようだ。一旦扉を閉めたら、少しだけ開けて再度外を覗く。さっき扉を開けて閉めた時に分かったのかもしれない。僕と目が合った息子が笑いながらこちらに近付いてきた。大袈裟なリアクションで見つかったふりをしながら、押入れから這い出て息子を抱き上げる。黄色い繋ぎを着た息子は、その押入れの中が最近のお気に入りらしい。普段着てる服を収納している衣装ケースに掴まったりしながら遊んでいる。大人にとっては些細なことであっても、子どもにとっては信じられないくらいの驚きと興奮が日常の中に詰まっているんだろう。

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