狩りに比べたら
夫婦という言葉すら人類が使っていなかった遥か昔。そこには確かに男と女が存在していた。雄と雌と言った方が適切かもしれない。口にする食料は誰かが用意してくれるわけではない。生の食材だからといって、鮮度が落ちないように自分以外の誰かが管理してくれるわけでもない。食べやすいように加工された食材の中から好きな物を選ぶこともできない。そもそも現代において僕らが食料にしている物は、元々生きている動物や植物の一部であって、最初から人間の食料となる前提でその世界に生息しているわけではない。ならばどうするか。自ら出向いて食料として利用するべく、捕獲するなり殺してしまうなりしないといけない。そうしなければ食べられる物が何もないという緊張感、があったのかどうかは分からないが、現代を生きる僕にはとても簡単には想像できない心境だ。
出産する能力があるのは女性のみ。それは昔から変わっていないはずだ。僕が知り得る限りのお母さん達が言うには、その痛みは想像以上だと言う。予防接種や健康診断の採血ですら苦手意識のある僕が、出産の痛みに耐えられるとは到底思えない。そう考えると男性よりも女性の方が痛みに強いのかもしれない。それともそこには男性の理解を超越した何か不思議な力が働くのかもしれない。僕がその痛みを少しでも和らげたいと思っても、できることはそう多くないと思う。耐えられないと言っておきながら、できることは多くないと言うのも歯痒い。それでも僕にできることがないかを考えた結果、出産以外のことは何でもする、くらいの気概で子育てに向き合おうと思い半年以上が経った。
「そんなことは母親にやらせておけばいいのに」とか「お父さんが抱っこしながらベビーカーを押している光景をよく見るようになった」とか言う人がいる。母親にしかできないことはあるが、父親にも母親にもできるのに母親だけがやっておけばいいと言うのは、一体どういう理屈だろうか。子どもの親は母親1人ではない。子どもにとって父親と母親どちらがより必要かなんて話もあるけど、その議論にいくら科学的な根拠があろうが、父も母もどちらも欠けるべきではない。母親がやっておけばいい、なんて言い方をするような子育てなど、父親の育児放棄としか思えない。僕は極力外に出かける時には自分で息子を抱っこ紐で担ぐようにしている。自分の子どもが可愛いからというのも大きな理由だけど、コロナ禍で家族の誰も付き添えず分娩室で奮闘した妻の負担を軽減したいと思うからだ。
男性がベビーカーを押しながら子どもを抱っこする光景を目にする機会が増えたと思うのは、かつてはそれが珍しいことだったからだろう。そういう時代だったと言う人もいる。それは言い換えると、周りの人も同じように子育てをしていたからと言える。時代や自分達以外の誰かの責任にして、父親は母親と同じ気持ちになってまで子育てに向き合う必要がないと皆が思っていたんだろうか。父親は外に出て仕事さえしておけばそれで充分なのだろうか。それは父親ではなくて、ただの男だ。眠い目を擦りながら、もう少し眠りたいという誘惑を振り解きながら、おむつを変える手元も眠気でほとんど目が開かずに見えていない状態で、真夜中を布団から出て過ごす。もし自分1人だったらと思うと、外で仕事も満足にできない。もっと言えば出かけることすら難しい。
誰のおかげで毎日食えてると思ってるんだ、とドラマの中で男性が捨て台詞を吐く。現実世界で同じ言葉を使う人間がいるとしたら、勘違いも甚だしい。誰のおかげで毎日家にいない間、子どもが食べたり排泄をして健康を保っていられるのか、と聞きたい。今の時代は皆がこうしているからと言ってしまえば楽だ。自分の頭で考える必要がないから。でも僕は自分が父親である意味を考え続けたい。いずれ自分の手を離れて彼自身の人生を生きていくことが分かっていながら、誰よりも近くで過ごす日々がある意味を考え続けたい。僕は父親としても、1人の人間としても死ぬまで成長し続ける為に生きているのだから。