2021年、元旦
年が明けた。前日に久しぶりに飲んだ酒のせいだろうか。目覚めはあまりすっきりしたものではなかった。寝室のドアを開けて廊下からリビングの方を覗いた。リビングのドアには小さなすりガラスの覗き窓が備わっていて、そこから白い光が漏れていた。洗濯機が動く音も聞こえてくるから、おそらく母が既に起きて前日の衣服を洗っているのだろう。朝早い母のその習慣は僕が小さい頃からずっと変わっていない。変わったことと言えば、洗い終わった洗濯物を外に干す代わりにコインランドリーに通うようになったことだろう。いつまでも昔のようにはつらつと動き続けられるわけではないのだ。それで少しでも身体の負担が減るのなら遠慮なく使うべきだ。
例年なら日付が変わる前に、実家の近くの神社に向かって歩いていた。敷地の地面には大きな穴が掘られていて、枯れ枝や何やらで立派な炎が立ち昇っていた。火元からは充分離れているはずなのに、その熱気は身体を貫通するようだった。本堂の横には昔枝同士が繋がっていた木が植っていた記憶があるのだけど、見る限りそんな樹木の姿はなかった。賽銭をあげて手を合わせる。自分と家族の健康を祈る。自分の願望全てを神様が叶えてくれるとは思っていないけど、できることなら皆が健康で過ごせるくらいの力は貸してもらえたらと思う。普段は実家から遠く離れて生活しているから、両親の健康状態を逐一観察することはできない。だからというわけではないけど、1日でも長く元気でいて欲しいと願う気持ちはどこにいても変わらない。
元日の朝に早起きして、日の出を海まで見に出かけたこともあった。東の空は既に白んでいたけど、初日の姿はまだ見えていなかった。冷え切った車に乗り込んでエンジンを始動させる。温度計の表示が車の芯まで冷え切っていることを教えてくれていた。エアコンの吹き出し口からは冷たい風しか出てこない。上着を着込んでいたから空調のスイッチは切って走り出した。いつもなら信号で何度も発進と停車を繰り返している大通りも、早朝は信号がずっと点滅を繰り返すだけだった。他の車に注意しながら海まで急いだ。堤防に辿り着くと案の定自分以外にも朝陽を見ようと車が何台も止まっていて、肩をすくめて寒さに耐えながら待っている人達が何人もいた。
一番好きな色はオレンジだ。でもただのオレンジではない。夕焼けや日の出のオレンジ色が好きだ。それは何千もある中の一色ではなくて、もし命の輝きにも色が与えられているとしたら、それは太陽と同色なんではないかと思える色だ。それも日中の目も開けられないくらいの眩しさではなくて、地平線に部分的に隠されている状態の太陽だ。地平線と水平に薄く雲がかかっていた場所が次第に明るくなり始める。灰色の空は焼かれ、その隙間から溢れ出んばかりに陽光が漏れ始める。人々がため息を吐く間にもどんどん明るさを増し、東の空がオレンジ色に染まっていく。淡く燃え広がっていくようだけど、決して暴力的ではなく温もりすら感じるような光だった。
砂浜には道着を着た若者達が、白い息を吐きながら海を見つめていた。近くには大きな焚き火が燃え盛っている。そして何かの合図で一斉に海に向かって彼らが進んでいく。真冬の海の冷たさは最早僕の想像の域を超えてしまっていて、言葉でその体感を説明することは難しい。何もない目の前の空間に放たれる一挙手一投足が、水飛沫と共に冬の厳しさを物語っている。身を引き締めるというのは、精神的な状態だけを言うのではないんだなと思えた。身体と心は密接に繋がっているのだから、どちらか一方への影響だけでは留まらないものがたくさんある。自分の心と身体がどれくらい密接に繋がっているかを、僕はきちんと把握しているのだろうか。そのどちらにもまだまだ伸び代があると信じているから、僕はもっともっと自分自身を知って成長を続けたい。今年もその気持ちを強く持って過ごそうと思う。