図々しく
今年は最初から最後まで色々と心配事が尽きない1年だったと思っている。まだ2020年が終わるまで数日残っていて、在宅での仕事も明日1日分が控えている。仕事の合間に買い物に出かけ街を歩いていると、今日が平日なのか週末なのか分からなくなってくる。もう仕事のことは一切考えずにのんびりしたいと思う気持ちが、僕の曜日感覚を狂わせているのだろうか。1日は24時間たっぷりとあるはずなのに、僕はもう夕方6時を過ぎて息子と2人で熱いお湯に浸かることを考えていた。そう言えば部屋の配管を交換した後から、水とお湯の蛇口を両方捻って温度調整して適温のシャワーにしているはずなのに、時々冷たくなったりするのはなぜだろう。
風呂に入るなら一番風呂がいい。実家で暮らしていた当時は、今住んでいる部屋のように蛇口を両方開けて温度調整をしていた。追い焚きをすることができなかったから、いつも母はかなり熱いお湯で浴槽を一杯にした。夕飯を食べた後に風呂に入るように促されるけど、片足を底まで届かせるのも躊躇うほどお湯が熱かった。だから結局青い蛇口を捻って水を足すことになる。でも冬場になるとお湯はどんどん冷めていく。最初に入って水を少し足したつもりが、身体が全然暖まらない温度まで下がるきっかけになって、結果的に赤い方の蛇口から出る熱湯を注いで温度を上げていた。
いつからだったか忘れてしまったけど、実家のその風呂も追い焚きや蛇口から出る温度をあらかじめ設定できるように変わっていた。それからは特に一番風呂にはこだわらなくなった。仮に他の家族が皆入った後にお湯が冷めてしまっても、追い焚きのボタンを押せば熱めのお湯が足されて好みの風呂の温度になるからだ。最初は長く浸かっていられる適温が分からず、肩までお湯に入って追い焚きを数回やっていたらのぼせてしまったこともあった。浸かっている間には気付かないのだけど、出ようかと思って立ち上がると一瞬くらっとなってしまう。何度かそんなことを繰り返しながら、熱すぎない湯温で風呂を楽しむようになった。
目一杯入っていないように見えているだけで、身体を沈めると掛け流しの温泉のように浴槽の外に溢れ出していく。それを見つめながら、僕の心配事や悩みも一緒に流れてしまう光景をイメージしてみる。マスクを買い込み、日々の感染者数に一喜一憂し、在宅勤務が明日終わったらどうしようかと考え、このまま実家にも帰省できず息子を家族に会わせられないまま1年が過ぎてしまうのかと気を揉んだ。この混沌とした状況がいつまで続くのか誰にも分からない。少なくとも僕には正確に把握できない。どれだけ目を凝らしても、今この瞬間よりも色濃く未来の風景を眺めることはできない。今の連続が過去になって、積み重ねることで時間が進み未来だと思っていた場所に行くことができる。翼を持っていたとしても、積み重ねたものがなければより高い所から落ちることになる。
もっと図々しくてもいいんじゃないかと思っている。言葉の意味を調べたら、他人に迷惑をかけても気にしないとなっていた。100%他人に迷惑をかけないで生きるなんてことがあるだろうか。言葉の受け取り方一つ取っても、聞く人によって肯定される時もあるし否定される時もある。要は自分には他人の受け取り方をコントロールできない。予想することはもちろんできる。正直な気持ちを打ち明けようとはするけど、できることなら冷静な状態で伝えたいと思う。でも感情的になるのも、ある種の自分の内側にある純粋な結晶体みたいなものだから、それが完全に悪だとも言い切れない。
丸くなったと言われる。ただ完全に丸くなってしまったら、どうやって前に進めばいいんだろう。どこにも引っかかることができずに、その場でつるつると滑るだけならまだ留まることはできるかもしれない。留まらずに滑り落ちてしまうかもしれない。他人に迷惑をかけて全く何も思わないわけない。それでも図々しくありたいと思う。