日曜日、晴れ

 2020年最後の日曜日の朝は、息子との根比べとなった。土曜日から日付が変わって今年最後の週末を迎えた。例年なら帰省シーズンとなるこの時期も、今年は各都市の駅が閑散としているらしい。まだ仕事納めではない人達もたくさんいるだろうから、これから主要な道路や駅が混み始める可能性が高そうだ。できることなら人が殺到せず距離を保ったまま過ごしたいと思っているのは僕だけではないはず。帰省をするかしないかで迷い続けていたけど、もう決断してしまっている。

 玄関先に掛けてある抱っこ紐を取りに行き腰に巻き付ける。今朝はこのまま起きっぱなしでもいいやと割り切っていたけど、抱きかかえた後は思っていたよりもすんなりと眠ってしまった。ただいつも苦労しているのは紐を外して布団に降ろす時だ。最新の注意を払ったつもりでも、ほとんど毎回目を覚まして泣いてしまう。僕自身が早く寝たいと思っていると、眠りが浅いまま置かれるのでそれが気に入らないのかもしれない。僕の顔と息子の頭の間を目隠しで遮ったら、後はひたすら動かなくなるまで背中を軽く叩きながら、規則的にゆっくり揺れ続けるだけだ。

 子どもと言えば朝早く起きて、1日中遊び回って疲れて眠るというイメージだけど、生後半年ではまだその生活パターンに当てはまらないだろう。遊び回ると言っても、肩車をしたり彼を持ち上げて空中を舞う飛行機の動きであやしたりするのが限界だ。本人はそれで楽しそうにしているのだけど、やはりまだ睡眠のリズムを完全には掴んでいないのだと思える。生まれてからすぐにできなかったことが一つずつできるようになるのと引き換えに、新しい動きを自分の身体で再現しようにも動かせずもがき続けている。でも思う存分もがき続ければいい。そのうちにきっと思いも寄らない世界が目の前に広がっていくから。

 布団に彼を置いた後は、自分もすぐに眠ってしまった。外はまだ夜が開けていない。日曜日は始まったばかりだった。次に目を覚ました時も時計はまだ7時を過ぎたばかりだった。僕はいつものようにパソコンを開いてメールをチェックする。おそらくこの先関わることはなさそうな広告メールが今日も届いて開かずに削除する。もう既に使っているサービスの広告メールも届く。個人情報の全てが筒抜けになっているわけではないんだなと思う。1日に数件しか見ないから敢えて広告をブロックしていない。数回のクリックで消し去ることができるから。どうしても消したいものに限って、いつまでも記憶に残ったままなのに。

 下北沢の街には今日も自転車や歩く人の姿、そして車が通りを走り去っていく。本多劇場とその向こうの青い空を横目で見ながら、来年はそこに気兼ねなく足を踏み入れられるだろうかと考えた。演劇を観なくても生きていけると思わないわけではない。下北沢にいるから芝居を観なければとも思いたくない。でも現実的なことばかりで頭の中を埋めてしまうと、楽しいことを考えられなくなってくる。フィクションは必要な要素で、現実を完全にそれと置き換えることはできないけれど、現実に生きる人間と完全に切り離すこともできない。囚われているのではなくて、自分を開放する為の一つの手段として社会の中に在り続けて欲しいと願っている。

 スポットライトを浴びていると、眩しくて目の前にいる観客達の顔がはっきり見えない。空気中を漂う本当に小さな埃にライトの光が反射して筋のようになっていた。額に薄っすらと汗を浮かべながら、自分の正面にある名前も付けられない何もない空間の一点を見つめ続けていた。まるで舞台の上で現実世界から取り残されたような不思議な気持ちになっていた。音響の操作盤の僅かな明かりが遠くに見えた。こちらはちゃんと静かに観ていると知らせてくれているような優しい小さな明かりだった。最後の台詞の語尾が無音でどこまでも伸びていくような心地がしていたけど、幕は滞ることなく降りていく。そしてまた新しい物語が語られる。

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