誰の責任でもない

 手作りのシックなリースを小さなテーブルの上に置いた。その真ん中の空洞になっている部分に、淡い緑色の小さなキャンドルを置いて火を灯す。燃えている火を眺めるのはいつ以来だろう。自分の誕生日以来かもしれない。穏やかに明るく時折揺らめく火を眺めていると、ついさっき外で買ってきたケーキを妻が運んできてくれた。下北沢の駅前にある小さな洋菓子店。僕はいつもその店のショコラを買って食べている。甘過ぎず苦過ぎず、一番上のチョコレートの層が程よい硬さでとても気に入っている。

 僕がそんな幸せな気分に浸っている間にも、世間の状況は刻一刻と変わり続けていく。昨日久しぶりにテレビを付けて朝のNHKの子ども向けの番組を見たけど、例えテレビがなくてもネットで今どんなことが起こっているかを知ることはできる。知って嬉しくなることよりも、不安になる見出しの方が多い気がするのは今に始まったことではない。でも不安にだけ意識を持っていかれると、些細なことまで気になり出してしまうから、極力何とかそれらを押し退けようとする。だからと言って無知なままではいられない。それは自分だけではないと言い聞かせながら出口のないトンネルの中を、足元を掬われないように進んでいるようなものだ。

 自分以外の誰かに何かを誘われたとしても、主催したのは自分ではないからと答えるのは言い訳にしか思えない。自分が声を上げたのではないから、責任は声を上げた彼または彼女にあるというのは無責任に思える。仮に自分の提案ではなかったとしても、最終的に同意したのは他でもない自分自身なのだから。割合で言って100%自分には非がないなどと言い切れるだろうか。何の話をしているかと言えば、最近話題の会食についてだ。僕の少ない知識と知っている範囲で言えば、賢明な判断ができる人物なんだろうと思っていた人達が、なぜか口から出る言葉とは裏腹な行動をしているように映る。

 ただ僕がいくらここで文句を言ったところで、彼らの行動を変えることは不可能だし、是非を問う立場にもない。反面教師という言葉があるけど、他人の行動について思うことは自分のこれからに還元していくしかないと思っている。僕自身が他の誰かに、自分の取った行動の結果の責任を求めることをしたくはないから。特に今のように誰しもがはっきりと先を見通せない状況の中に入れば、言い知れぬ不安で自暴自棄になったりしても驚かない。単純にポジティブな状態を保つということではなくて、正しいと思われる情報を入手して状況を判断し冷静に行動する必要があるということだ。

 僕がネットニュースを通じて知り得たことは、実は全て事実とは異なるのかもしれない。直接僕自身が物事を自分の目で確認できることがとても少ない。だからこそ仮にそれらが事実だったとして、自分ならどう考えるかという視点を忘れないでいたい。僕が触れている情報達は、真実と同義語ではない。何を真実と思うのかは人によって違う。共通の認識と言われていても、そこにはある程度の誤差が含まれる。でも誤差自体は大きな問題にはならないと思う。それよりも誤差のない状態で共通認識という言葉を使い、考えを固定させようとする力こそが危険なのだと感じている。

 今年の春先からオフィスへの出勤が無くなり、朝起きてそのまま自宅で仕事用のパソコンを広げる日々が続いている。もうそれが日常の一部になったと言っても過言ではない。いつかまた通勤して働く日々が戻ってくると言われているが、そうなるメリットよりも今のスタイルの方が不安なく毎日過ごせるのではないかと思っている。原則在宅勤務になることを願ってはいるけど、そうすんなりと物事が変わっていくとも思えない。僕にはそれを決めることができない。決まった後に従うことしかできない。できないことは前から分かっていたから、できることだけ考えるようにする。来年のクリスマスにはもっと自由に生きていられるように。

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