波と星
僕の記憶が確かならば、今年は一度も海を見に行っていないはずだ。夏は例年通り暑かったし、本格的に暑くなる前に息子が生まれた。もうそんな状況では海に行くどころではなくなっていた。蒸し暑い夏の数ヶ月をほとんど冷房の適度に効いた自宅で過ごしていた。在宅で働きながら、合間に食料品や日用品の買い物に連日出かけ、帰ってくると赤ん坊の世話に明け暮れた。夜中に何度も泣き叫ぶ息子の声を聞きながら、自分が起きているのか眠っているのかよく分からないまま朝を迎えたこともあった。
先月に祖父が亡くなっていなければ、海を見ないだけではなくて実家にも今年中に帰ることはなかったかもしれない。帰れるのならばもちろん帰りたかった。東京で生活すると決めてはいても、生まれた土地のことは決して忘れないし、普段合わない家族と一緒にいる時の自分が、妻や息子といる時とはまた違う種類の安心感に包まれているのも感じている。家族全員がまだ同じ屋根の下で生活していた頃のことを懐かしんでいるけど、実家で皆が集まればそこには当時のままの時間の流れがあって、両親と身体だけが大きくなった僕を含めた兄弟姉妹が、かつての雰囲気のまま空間を共有することができる。
朝から夜遅くまで働き詰めだった。自分がやるしかないんだと根拠もないまま気を吐いていたつもりだった。ただいくら気持ちを強く保とうと思っていても、身体はいつも正直だった。仕事中にうとうとしてしまったり、それを同僚から指摘されたりする。そして苛立つ客を前にして本音を言えば罵られた。文字通りの限界まで自分自身を追い込んでやっているのに、なぜそこまで言われなければならないのだろうと随分と思い悩んだ。自分は本気でやっていると思いたかったのかもしれない。そうして無理矢理自分を納得させて、理不尽から目を逸らしていただけだった。
当時の職場からその海までは20分くらいだっただろうか。時計はもう真夜中に差し掛かっていた。仕事終わりにそのまま車を走らせて海まで行った。今は夜間照明が設置されていて真っ暗というほどではないが、その頃は近くに民家の明かりもほとんどなかったから、足元も目を凝らさないと分からないくらいだった。堤防沿いに車を停めてドアミラーを折り畳む。ドアを開けると聞こえてくるのは穏やかな波の音だけだった。鍵のボタンを押して施錠する。堤防の大きな段差を一段ずつ大股でゆっくりと降りていく。砂浜を灯台がある方向に向かって歩き出した。しばらく歩いたらまた堤防の上に上がって、近くのベンチに腰掛けた。何も考えたくないと思って、座面に背中を付けて仰向けに寝転ぶ。さっきから波が月に照らされて、銀色に揺れ続けていた。それは星が輝く夏の日の夜だった。