駐輪場の明かり

 自転車が数台、原付が1台停められている。誰かが座るであろうベビーカーも、明かりの下で空っぽのまま置かれていた。駐輪場がこんなに明るくなったのはいつからだろう。そう言えば日中、床下から工事で穴を開けるような音がしていたし、トイレの窓から下を覗いた時に業者らしき人が話をしているのが見えた。何か悪いことをしているわけではないのに、目が合うのを恐れてすぐにトイレを出たのを覚えている。暗い時には何もないと思っていた空間にも、照明に照らされることで人間の暮らしが色濃く浮かび上がってくる。

 電車での遠出は色々と気を遣う時期だ。自転車を1台買ってもいいかなと考えなくもない。ただ最近は寒さも本格的になってきているから、自転車に乗って風を受けながら遠くまで出かけるのも億劫ではある。学生時代、自転車の行き先は学校ではなく不登校の子ども達が集まるフリースクールだった。そこは中学校よりもかなり距離があったけど、学校に行くよりは山坂を超えて自転車で向かう方がストレスを感じなかった。ぼぉーっとしていたのかもしれない。一度だけ自転車に乗っている時に派手に転けてしまって、制服が破れるほど膝を擦りむいてしまった。その日は学校に午前中少しだけ行った後、血だらけの膝を剥き出しにしたままペダルを漕ぎ続けた。

 本当はフリースクールにも行きたくなかったのかもしれない。自転車に乗ってひたすら目的地に向かっている間だけが、煩わしいと思っている物や人から解放されているような気がしていた。目的地に到着してしまえば、当然そこには自分以外の誰かが必ずいる。彼らといる時でさえ、自分とは違う人間なんだなと言葉にはできずとも感じていた。学校にいるよりは緊張感はなかったと思う。実際に楽しい時間を過ごしていたと言える。ただ自分がどういう人間でどういう風に生きていきたいかということは、自分自身で見つけて、自分自身でその本来の自分を解き放つしかない。

 高校生の時には山岳部の顧問と同級生の数人で、駐輪場の近くで燻製を作ったことがある。僕はその時に初めて燻製という料理を食べたはずだ。木片を燻していたと思うけど、例えて言うならとても濃い鰹節の粉を鼻から一気に吸い込んだような刺激の強い香りだった。それに似た独特の匂いが、街を歩いていると時々見かける燻製を提供する飲食店から漂ってくる。そして何回かに1回は、駐輪場で燻された食材と小さな空き缶を思い出すことになる。駐輪場でやらなくてもよかったのになと余計なことも考えながら。

 駐輪場であの人が来るのを待っていた。きっとここで会えなければ、もう二度と顔を見ることはないと思えた。勇気というのはただの言葉で、その本質は行動することなのに、何もかもうまくいっている場面を思い浮かべているだけだった。そして叶うことのない思いがまた一つ、思い出したくもない思春期の記憶となって薄く積もっていった。漕ぎ続けなければどこにも行けないから、10年以上の経った今もペダルを踏み続けている。

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