バイオハザード

 扉やドアに辿り着いた後、次の部屋に行くまでの演出が妙に静かで長い。敵がいきなり目の前に現れて、後ろに少し下がったら画面が切り替わり敵の姿を見失う。ただし敵はこちらの姿を見失っているわけではないから、画面で見えていない場所からの攻撃を一方的に食らい続ける。そもそも操作方法に全然慣れる気がしない。主人公はゾンビに噛まれても体力が減るだけで、時間が経過してもゾンビにならずに体力が尽きることでゲームオーバーとなる。僕だけが感じていたことだろうか。何のことを言っているかと言えば、タイトル通りでゲームのバイオハザードのことだ。

 初期のプレイステーションで遊んだ記憶がある。スティックで操作しながら、次々とゾンビを倒していくゲームだと思っていた。減った体力を回復させるのにハーブを手に入れるということに関して文句はない。途中経過を記録するというと、それが可能な場面の制限があったとしても、記録する為のアイテムが必要だとは思っていなかった。強敵を倒した後に中断しようとして、タイプライターを見つけるのだけど、肝心のインクリボンがないことに気付き、それを探索する途中で力尽きたりする。その時の無力感はとてつもない。もう一度同じ敵を倒せる気がしないからだ。

 しかし映画なら、自分で主人公を操作する必要はない。謎を解く為のアイテムを当てもなく探し回る必要もない。展開される物語を純粋に楽しめばいい。記憶を失った主人公が、地下の研修施設へ特殊部隊と行動を共にする間に、記憶を取り戻すどころか人並外れた戦闘力を急に発揮し出して危機を乗り越える。主人公以外で物語の冒頭に現れる謎の人物は、大抵良からぬことを考えていて事態を悪化させる張本人という映画あるあるは、間違っていないのではないかと思わせる。

 フィクションとは分かっていても、そして原作とは違う超人的な能力を持つ主人公であってもアクション映画として観れば、僕は嫌いではない。人間とゾンビを分けるのは何か。理性は死んでいるのだけど、動物としての原始的な本能だけで行動していることか。人間を人間として扱おうとする心を無くした、肉体という中身のない動く容器か。いずれにしろ、人間としての中身があるかどうかが重要だと思える。容器だけの存在があるのなら、中身だけで成り立つ存在もあるかもしれない。ポップコーンを食べながら、そんなことを考えていた。

 凶暴な怪物を退け何とか危機を脱した主人公達。しかしそれも束の間、直後に謎の集団に拘束されてしまう。物語の核心にはほぼ全く迫っていない状態で、きっとそれを語る為に主人公は再び目覚める。物語は動き始めたばかりだ。絶えず誰かに、何かが、どこかで起こり続けながら最終的には互いに邂逅を迎えることになるのだ。

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