4階角部屋
週末でもないのに外で人が騒ぐ声が聞こえる。この街は特にそれが珍しいというわけではない。平日など関係なく飲食店の明かりがあちこちから漏れ出ている。近くのビルの窓には、蛍光灯の明かりと仕事中であろう人達の姿も見える。僕の知らない所で誰かが働き、世界を動かしているのだ。今月から僕の新しい相棒となったスマホをポケットに入れて玄関を出た。11月の終わりの空気は冷たい。風にはもう温もりがなく、撫でるように身体の熱を奪っていこうとする。それをさせまいと上着の襟を持ち上げるのだけど、首元に感じる寒さは変わらなかった。
エレベーターのボタンを押す。ガラスの向こうの暗闇で不格好な重りが滑らかに昇っていくのが肉眼でも見える。そしてその動きとは逆方向、つまり上から何かが降りてくるのも分かった。エレベーターはそうして今日も動き続けている。音もなく僕の目の前で停止して、静かにドアが開く。なぜかこのエレベーターはドアが閉まるのがとても早い気がする。急いではいないのに、誰かに急かされているようだ。階を表すオレンジ色の数字があっという間に小さくなっていき、1階に到着した。
角を曲がって建物の入り口ドアを出る。自動ドアにはなっていないから、自分でつまみを回す必要がある。ただドア自体は軽い力でも想像以上の勢いで開くので、何度か壁にぶつかる音を背中越しに聞いたことがある。もうここで生活し始めて2週間が経とうとしている。元の部屋と今とどちらが良いかと問われても、どちらかひとつには決め難い。仮住まいの家からはスーパーも駅も近くなった。世間が今の状況だから、毎日のように電車に乗って通勤したり出掛けることはほぼない。息抜きに公園に行く時に、数駅分乗る程度だ。
スーパーや駅に近いということは、つまり繁華街にも近いということだ。下北沢は繁華街と言えるエリアが広いわけではないから、夜になって部屋の外から聞こえてくる音は結構違う。元の家も大きな通りから離れていないから、車やサイレンの音は聞こえていた。その代わりに人の声はほとんど聞こえてこなった。静かな場所だと言ってもいい。仮住まいの夜が騒音で寝られないわけではない。もしうるさいと感じても、きっと子育てや何やらで疲れているから眠ってしまうだろう。知らない誰かが騒ぐ声ではなく、いつも息子が呼ぶ声で目を覚ましている。
ポストにはチラシが詰まっている。ずっと部屋の中で工事を行っていたらしい。具体的にどんな作業だったのか僕が直接知ることはないだろう。事前に床を切り抜いていたから、木屑が撒き散らされていることだけは間違いない。それだって元通りに綺麗にしてくれればそれで何も問題ない。僕らが望むのは工事前と変わらない生活だ。いや、変わらない生活など送れるだろうか。僕はもはや2週間前とは違う人間になっている。少なくとも時計はそれだけ進んだ。そしてまた明日には、今日とは違う1日が待ち構えている。