初出汁

 きっと数口だろう。仮住まいのキッチンの下の棚を開けたら、小さな銀色の小鍋を取り出す。プラスチック製の計量カップは、工事中の自宅から持ってきた。以前はガラス製の物を使っていたが、割れやすいので買い替えたのはもう昔のこと。使い込んだからか細かな傷が目立って、透明度も失われている。おそらく200mlくらいだろうか。1日で全部無くなることは間違いなくないであろうことは分かっているけど、余っても自分達の料理に使えるから問題ない。コンロのダイヤル式の点火スイッチを回したら、小鍋の下で青い花のような炎が一気に広がった。

 鍋が小さいからすぐに沸騰し始める。冷蔵庫にしまってある鰹節を取り出して、少なめの一掴み。それを沸騰して騒がしくなっている熱湯の中へ放り込む。あっと言う間に鰹節はお湯に晒されて、その中を漂い始めた。それとほぼ同時に香ばしい出汁の匂いが僕の鼻まで届く。それだけでご飯は食べられないかもしれないが、漬物くらいならかじれるかもしれない。小刻みに、そしてひらひらと鰹節が踊り出す。湯気も立っていて、香りは更に強くなっていた。

 2分くらいだろうか。いつも時計で時間を測ってはいない。お湯の色が薄い黄金色になったら火を止めて、鰹節が落ち着きを取り戻してゆっくりと沈んでいくのを待つ。お湯の量が少ないから、沈むと言っても数センチくらいだろう。灰汁を取る時に使う網で鰹節を綺麗に残さずすくいとる。それを口にするのは僕でも妻でもなく、これまで母乳とミルクしか飲んだことがない息子だ。小さな鰹節も全て取り切るつもりですくい続ける。最後の方は鍋を手前に少し傾けて、目視で粒が見えなくなるまで出汁の中に網を通した。

 火を止めてからまだ数分しか経っていない。鍋はまだまだ熱を持っている。お玉で一杯だけすくって、小さめのカップに取り分けた。皿をその上から被せて冷めるのを待ち続けた。そして時間が過ぎてちょうど授乳前のタイミングになった。カップに中の出汁もすっかり冷めていて、これなら火傷の心配もないだろう。吉祥寺に出掛けた時に購入した黄緑色のスプーンを出して、出汁の入ったカップと一緒にリビングまで運んだ。息子を膝の上に乗せてみる。機嫌は悪くなさそうだ。まずはスプーンだけを口元に運んでみる。

 ある程度予想していたが、やはり不思議そうな顔をして唇をゆっくり動かしている。それはとてもではないが、大人がやるような汁を飲む仕草ではない。そして次はほんの少しだけ出汁をすくって口元に運ぶ。今度は先程よりもあからさまに眉間にしわを寄せながら、よだれと一緒に出汁を口から溢れさせていた。彼が何と思ったのかは正直分からない。僕は経験的に鰹出汁が美味しいと知ってはいるけど、彼にはその経験が綺麗さっぱりゼロだ。数回繰り返している内に、顔の表情は和らぎ口をぱくぱくさせて飲み込み始めた。気に入ってくれたのなら嬉しい。

 自分でできなかったことが減っていく代わりに、自分でできるようになるまでに何度も失敗を繰り返すことも増えるだろう。真っ只中にいる時には、心も体も目一杯使っていたけど、過ぎ去ってしまうと何だか寂しい。間違いなく喜ぶべきことではある。そして同時に二度と戻らない時間でもあるから、大切に過ごしたい。

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