いつかの肉蕎麦
あれは確か風が強くとても寒い日だった。職場の後輩に声を掛けられ、電車を乗り継いで屋台で出される蕎麦を食べに行った。東京に来てから1年以上は経過していたけど、そこは僕にとってまだまだ未開の土地でもあった。それまで聞いたことのない名前の路線に乗って、当時持っていた上着の中で一番分厚い物を着込んで出掛けた。屋台と言えばラーメンという先入観があったからか、その彼からの誘いには半信半疑だった。でも嫌いな食べ物ではないから、経験としては悪くないとも思っていた。
数年前の記憶が突然蘇ったのは、今日家で作っていたのが同じ肉蕎麦だったからだ。厳密な肉蕎麦の定義は知らない。蕎麦と言えば天ぷらという、これもまた自分の中での勝手なイメージではあるけど、天ぷら以外のトッピングを食べないわけではない。屋台で食べた肉蕎麦には、僕の個人的な感覚ではあるが、筋っぽく硬い肉がたくさん入っていた。味付けは濃いめで、薄味が好きな僕は気に入らなかった。ただ蕎麦と肉の組み合わせ自体は悪くないと思ったし、どちらかと言うと淡白な味になりがちな蕎麦に旨味が加わるであろうことは予想できた。
薄くて柔らかい肉が好きだ。自分で肉蕎麦を作ろうと思い立ってスーパーに行った時、僕が真っ先にカゴに入れたのはしゃぶしゃぶ用の薄切りにされた豚の肩ロースだった。まだ仮住まいの生活は続いていて、普段使っていた調味料やら何やらが全部は揃っていないので、出汁入りの麺つゆも一緒に購入した。蕎麦は乾麺だが、小麦粉よりも蕎麦粉が少しでも多く配合されていそうな物を選んだ。量もある程度食べたいと思っていて、それにちょうど良く値段も手頃な商品を見つけられた。長ネギも買って店を後にした。
沸騰して火を止めた直後の鍋に肩ロースを広げて入れる。肉の色は薄い赤から白く変わっていく。肉を全て入れて色が変わったのを確認したら、火は付けずにそのままザルに開ける。同じ鍋に今度は800mlの水と刻んだ長ネギを入れて沸騰させる。沸騰したら火を止めて麺つゆを投入する。味付けは薄くもなく濃くもないくらいだ。要は完全に自分の好み次第。一気に多めに入れてしまうと調整が難しくなるから、お玉で少しずつ入れて味見をするのが無難だろう。味が決まったら、水を切っておいた豚肉を入れて再度火を付ける。煮立たせないようにして少しだけ火を通したら、食べる直前まで火は止めておく。
蕎麦はパッケージに書かれている通りに調理すればいい。僕は硬めが好きなのでいつも1分くらい短めに茹でている。本当は丼に盛り付けたいのだけど、仮住まいで丼を持ってきていないので、ざる蕎麦にして温かいつゆに浸けて食べることにした。火を通したネギの甘みと、下茹でして油を少し落とした肉の旨味が相乗効果で味を高め合っている。ざる蕎麦には冷たいつゆだと思っていたけど、温かいつゆであれば11月のこの時期でも季節外れな感じはない。今まで味わったきた物全てを覚えてはいないけど、覚えているいくつかは、今の手料理に確実に生かされている。