安堵
不思議な気分だ。東京は僕が今まで住んできたどの街よりも人がたくさんいる。高い建物もたくさんある。そして植物の緑は比較的少ない。東京と一言で言っても、場所によって全く異なる表情を見せてくれる。都会だから緑が少ないとか、子どもには良くない環境だとか、東京の端から端までが同じような景色しか見えないのではない。高層ビルが立ち並ぶのは都心の一部で、そこから離れれば離れるほど環境は一変する。そして僕は都心から近いが、いい意味で世間の東京っぽさとは距離を取っているような下北沢に住んでいる。
実家の最寄り駅で電車を降りた時、僕の耳に聞こえてくるのは近くの国道を走る車の音くらいで、それも駅からは100mくらい向こうだから静かな場所と言っていいだろう。それに比べて下北沢は、駅の改札を通り抜ける前から既に賑やかな雰囲気が漂っている。初めて僕が下北を訪れた時とは随分景色が変わってしまったけど、変わり続けていくことも街の特徴なのかもしれない。それはきっと街というより、街で生活する人や訪れる人達の変化によるものなのだろう。
駅前から見える大きなスーパーは今も変わらない。部屋のキッチンの後ろの給水管からの水漏れを修理する工事が終わるまでの仮住まいからは、そのスーパーがとても近い。買い物には普段と同じように出かけるのだけど、キッチンには使い慣れた調理道具が揃っていない。だから事前に必要だと思った物はベビーカーに乗せて運んで来たつもりだった。実際はどうかというと、献立を考えて材料を買って仮住まいに戻ってから、足りない器具があることに気付くのだ。
仮住まいに玄関から最初に入った時、懐かしい匂いがした。何の匂いかなと考えていると、それは大学の時に仲良くしてもらっていた先輩の家の匂いだったことを思い出した。先輩の家と言っても彼はその部屋を賃貸で借りていたから、厳密には先輩の家ではない。とにかくその匂いは、自分とは違う誰かが住んでいることを思わせるものだった。2週間程度住む予定をしているが、匂いにはすぐに慣れるだろう。工事中の部屋だって初めて訪れた時は同じような感覚で暮らしていたはずだから。工事が無事に終わって、多少なりとも以前より綺麗になってくれればいいなと願うだけである。
浴室には乾燥機が付いているから、毎日洗濯しても乾かなくて困ることはなさそうだ。すぐに乾くのであれば、少ない服しか持っていなくても綺麗な物をいつも身に付けられる。他人がそれを聞いてどう思うかは別だが、いつも同じ服を着ているからといって、単純に洗濯もせず不潔だと決めつけるは物事の表面しか見ていないからではないか。そんな風に言われたり見られた経験はないが、ふとそんな気がした。表面に映る物だけでは中身が判断できないのなら、中まで潜っていく必要があるのかもしれない。仮住まいは確かに綺麗な部屋なのだけど、今は1日も早く元の部屋で元の慣れた生活リズムに戻りたい。