手を振って
薬局を営む祖父の家の近くには中学校が建っている。午前中には白いヘルメットを被った学生達が、重そうに自転車のペダルを漕ぎながら家の前を通り過ぎて行く。僕が小さい頃、よく家の前のその道でキャッチボールをして遊んだ。僕は球を投げるのが下手くそだったが、従兄弟達と誰もいない中学校のグラウンドまで歩いて行って野球もした。祖父は気に入っているのかいつも雪駄を履いていて、今も履き続けているそうだ。そんな歳を取っても変わらない様子だった祖父が病院に運ばれて、1日が経った。
日付が変わっても太陽はいつもと変わらず、東の地平線から昇り西の空に沈んでいく。その軌道は少しずつ違えど、途切れることはないだろう。少なくとも僕が生きている間は。祖母と僕の母は毎日病院に通っているらしい。ただこのご時世だから面会は許可されないそうだ。祖父がいる病院だけ特別そうしているわけではない。東京の病院だって同じような対応をしているし、実際に僕も自分の息子が生まれた時には、立ち合いも面会も許されなかった。祖父も80歳を優に超えていて、祖母と連れ添った年月はとても濃い時間だろう。空気のような存在と言うけれど、まさにそれなしでは生きていけない存在だと思う。
祖父母には言葉で伝えたことはないが、大先輩夫婦として2人をとても尊敬している。互いへの信頼感が、物静かに滲み出ているような雰囲気だ。もしかしたらそれは時間を掛けることでしか得られないものかもしれない。そしてそれは時間を掛けてでも得る価値がある関係性だとも思える。一度何かの機会に祖母に聞いたことがあった。祖父との結婚について、確か僕自身が結婚することを報告した時だったと記憶している。長い年月の中では、良いこともそうでないことも色々あったけど、祖父が夫で良かったと言っていた。本心だったと思う。
家の近くの中学校で、訪ねて来た曽孫達と遊んでいた時のことだったそうだ。祖父が倒れたことを、家の台所にいた祖母に伝えてくれたのは僕の従姉妹だった。きっと前回症状が出た時に詳しい検査をしていれば、急に意識を失うことはもしかしたらなかったかもしれない。というよりもそうして欲しかったという気持ちがないと言ったら嘘になってしまう。でも祖父がそれで後悔していないのであれば、それが一番幸せなことなんだと思う。医療従事者でもある祖父には、自分の身体の状態がどういう状況にあるかを、ある程度把握していたのではないかと思う。
駆け付けた家族が、祖父の状態について医師から説明を受けてそのまま処置が始まったそうだ。その処置の直前に祖父の顔を見れたらしい。そして名前を読んだ時には、声で返事をする代わりに右手を大きく挙げたそうだ。自分はここに生きていると。生きて声が届いていると。だから僕も顔を上げて、遠くから祖父の回復を信じ続けている。