イクメン

 言葉を口に出している人間にとって、それは紛れもない褒め言葉だろうとは想像できる。言われた人間が快く思うかどうかは全く別の話だけど。子育てに積極的な男性を「イクメン」と言うらしい。子育てに積極的になることに、男性として何か付加価値があるという意味だろうか。この言葉を作った人間が、どういった気持ちで発したのかは知らないし、知りたいとも思わない。なぜなら僕はそれを褒め言葉だとはどうしても受け取れない。本質的な問題を覆い隠してしまう、薄い幕のような言葉だ。

 薄いから、よく目を凝らして見ればその向こう側が透けて見えるはずだ。何となくカジュアルな印象の言葉には、人の心を前向きに動かす力は全く感じられない。僕だけがそんな風に考えているのかもしれないと思ったら、「イクメン」という言葉に否定的な意見は少なくない。それを知って安心したわけではない。ただ子育てに真剣に取り組めば取り組むほど、「イクメン」という言葉が何の効力も持たないものに思えてくる。なぜそう思うのか。自分なりに理由を探してみた。

 まず「イクメン」という言葉はあるのに「イクウーマン」という言葉が使われないことを不思議に思う。子育てに能動的に取り組む女性はきっとたくさんいる。存在するのであれば、言葉によってスポットライトが当たってもいいはずだ。でも表す言葉がないということは、言葉にする必要がないと誰かが思っているのかもしれない。女性が能動的に子育てや家事に取り組むのは当たり前という無意識が、社会全体にあるのではないかと思う。そして男性が外に出て働くということも、そういうものとして当たり前のように少なくない数の人達が考えている証拠ではないか。

 もう一つ、性別に関係なく親になった時点で、子育てに積極的にならなくてもいい理屈などあるだろうか。子どもを授かるというのは、生半可な気持ちでは全うできない。最初からその心構えがあるかどうかは別として、どこかの時点で覚悟しなければならない。ただしそれは決して後ろ向きな決断ではなくて、前向きな決断でなければならない。一緒に子どもを育てるパートナーと自分は人間だ。完璧な人間ではない。不完全であるから、お互いを補っていく。そして育てる子どもだって親と同じ人間だ。大人と同じようにできることが少な過ぎるというだけで、ひとりの人間であることを忘れてはならない。

 両親が2人とも同じ時間と同じ量を子育てに費やすべきとは言わない。生活状況はそれぞれの家庭で違うし、生きていく為に収入を得る方法も色々あって問題はないと思う。ただしどんな形であれ、親ならば協力して子どもと向き合う責任がある。思った以上に身体への負担が大きく、うまくいかないことがたくさんある。でも悩んで試行錯誤している間に、いつの間にかできることが増えている。自分もそうやって成長して大人になったんだと、毎日接している小さな身体の彼らが教えてくれる。それは決意を持って日々子どもと向き合うことで得られる、何にも変え難い素晴らしい時間だ。

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