後始末
早朝、親子連れが透明なゴミ袋を持って街を歩きながら、道端に落ちているゴミを少しずつ集めて袋に入れていた。そう言えば僕も小学生の時には、住んでいた地区で一斉清掃と謳って近所の大人達と一緒に歩きながらゴミを拾っていた記憶がある。東京も地方も、道にはゴミが多かれ少なかれ落ちている。都心程の繁華街ではない下北沢も、飲み屋が多く煙草の吸い殻や空き缶が散らかっている場面を時々目にする。僕は下北沢が好きだから、極力綺麗な街であり続けて欲しいと願っている。
飲食店で賑わっていたり、催し物が定期的に繰り返されて人が集まってくるのは問題だとは思っていない。その街独自の魅力があるという何よりの証拠だと思うから。「これだけ人が集まるんだから、多少のゴミは散らかってしまうよね」と言うのではなくて「これだけたくさん毎日人が集まっているのに、全然ゴミが落ちてないね」と言われる方が住んでいる人間は気持ちがいいはずだ。少なくとも僕はそうだ。楽しむ時は思いっきり楽しめばいい。ただ騒ぐだけじゃなくて、劇場があったり隠れ家的な喫茶店もあるから、ゆったりと過ごすこともできると思う。
夜の下北沢を歩いて家まで帰る。スーパーで買った食材が詰まった袋を腕にぶら下げていると、突然眠気が襲ってきた。堪らなくなって大きなあくびが出てしまうのと同時に、目には涙が滲んでいた。もちろん悲しいのではない。あくびと同時に生理現象的に起こったことでしかない。視界が涙で少し歪んだけど、目の前の景色は歪んだなりに瞳から入ってくる。通りに並ぶ照明や店の明かりがぼやけて、何とも言えない幻想的な雰囲気に見えた。現実世界の隙間から、普段の街の様子とは違う何かが染み出しているような景色だった。
そんな下北沢はとても人間臭く、そしてとても懐の深い場所だと日々感じている。どんな個性を持っていたとしても、それを否定されたり干渉されることなくありのままで居られる気がする。ただ泥臭く生きていくのはいいけど、自分から出た泥をそのまま道に垂れ流すのとは違う。大人と一緒に子どもが拾っているのは、その子ども自身が自ら捨てた物だろうか。子どもが酒を飲んで煙草を吸った挙句の果てに、ゴミをそのまま片付けずに去っていったんだろうか。もしそうだとしたら、それはそれで恐ろしい世界ではあるけど、現実的にその可能性はかなり低いはずだ。子どもが捨てないのなら、大人が捨てたことになる。仮にそうなら、なぜ大人が捨てていったゴミを子ども達が拾う必要があるのだろうか。
皆で街を綺麗にしよう、と呼び掛けてゴミを拾いに出掛けるのは悪いことではない。考えなければならないのは、拾いにいくゴミが必ずあるという前提で行っていないかということだ。子ども達が達成しないといけないのは、ゴミが落ちていたら拾う人間になるのではなくて、いつだってゴミを捨てるべき場所に捨てることができる人間になることだと思う。単純にゴミを拾う=良いことという認識は違う。自分が出したゴミの後始末は自分自身で行う。子ども達にゴミを拾わせる前に、やるべきことがある。