続く
いつか終わりが来るだろうか。毎朝起きてコップ1杯の水で喉を潤す。熱めのシャワーで身体に刺激を与える。カーテンを開けるのが少し億劫になるほど、外の空気は冷たい。そしてきっと今部屋を暖めてくれているエアコンの設定温度も、もう少し上げずにはいられない季節がやってくる。数年前から使っているセミダブルのマットレスに、大人2人が眠るのは少し狭い。厳密に言えば体格の大きな僕みたいな人間が横になると、それだけでセミダブルの大きさの恩恵は薄らいでしまうのだ。
子育てや在宅勤務の間に、自分のやりたい時間を確保しながら生活するのにも慣れ始めた。最初の頃は想像以上に眠れていなかったし、妻は僕以上に睡眠時間が削られていたはずだ。それを分かってはいても、つい口から不満が漏れることがあった。そして直後に自分がいかに未熟な人間なのかを痛感する時間がやってくる。ただそんな時でも子どもはある意味容赦ない。大人がどんな状況にいようが、生きる為に栄養を求めて訴えてくる。言葉を知らないから、最初は身体の奥から絞り出すように泣いていた。
とても切実な叫びだ。たくさん言葉を知っているはずの大人よりも、逼迫したものが伝わってくる。どれだけ眠くて疲れていても、何もしないわけにはいかない。父性があるとかないとかは分からないが、僕にとってはそれは責任であり、経験的にとことん付き合えるというのは幸せなことだと知っているからこそ、気力を振り絞ることもあった。ただし知っていたとしても、毎日それを満足に実践するのは難しい。親になる前に想定したとしても限度があると思う。そもそも想定内のことだけで人生というのは構成されてはいないのだから。
授乳の回数も減った。夜中に起きることも少なくなった。時々風呂に入った後、中々寝てくれない時はまだある。この時間でこうしたら寝るだろう、というのもまた大人が考える想定内であって、色々なことが習慣化する前の息子にとっては、想定外のことがあまりにも多過ぎるんだろう。大人になったら当たり前に感じて無意識に見たり聞いたりしていることでも、子どもにとっては新鮮な体験だということは、そばで様子を見ていると分かってくる。どんな風に本人が感じているのかは定かではないけど、目にするものや耳にするもの全てが初めての経験になるような毎日が、どれほど人間にとって尊い時間なのかを知ることができる。
子育ての時間の間にと言ったが、結局子育ての時間も自分の時間だ。何度も繰り返し思うのだけど、育てるのは子どもではなくて親としての自分自身なんだと強く思う。子どもを育てさせてもらっている。子どものおかげで親になれる。親になることでしか得られない経験や感情があって、それは僕自ら選んだことではあるけど、与えられているものでもある。同じ人間として、異なる人格を持つ人間として向き合い続けることが、互いの未来を少しずつ明るく照らしていくと信じている。