地平

 雲を静かに優しく撫でるように、飛行機の高度が少しずつ下がっている気がした。小さな縦の楕円形の窓の外には分厚い雲しか見えなかった。僕は一体これからどんな場所に降り立つんだろう。日本を遠く離れてもう10時間以上飛行機に乗っていた。座ったり立ったりをしなかったからか、下半身が何となく重たい。目の前のモニターに映し出される映像も見飽きたし、聴き慣れない言い回しの英語が流れるヘッドホンも外してから時間が経っていた。待ちくたびれていた僕の視界からは雲が徐々に切れ出して、降り立つであろう大地の輪郭が少しずつ明らかになっていく。

 夜なのだろうか。その割に空はまだ明るさを完全には失っていなかった。地平線の辺りは淡いオレンジと灰色が混ざったような景色だった。北米の今の時期は寒いと事前に聞いている。おそらく日本でそれまで僕が感じたことのない寒さだと思う。だからといって、細かな傷がたくさん付いたシルバーのスーツケースの中には、特別な防寒具が入っているわけでもない。何もかもが未知の世界だった。いくら寒いとはいえ、凍えて動けなくなることはないだろうと考えていた。そんな何でもないことを考えている間に、いよいよ飛行機は直陸間近になった。

 着陸の瞬間、衝撃に耐えようと身体は力んでいるのだけど、実際はそれほど大きく身体が弾むわけではない。個人的には飛び立つ時の方が、身体に受ける重力は大きく感じる。それと共に感じる高揚感もある。しかし着陸の時には約半日前に感じていたはずの気持ちはなりを潜め、不安が顔を覗かせるようになっていた。これから過ごす1年間を思うと、かなり長いのだろうと考えた。成長したいと思って決断したが、不安を全て口に出して誰かに伝えてはいない。自分で決めたのだから、最後まで全うするべきだと。不安に感じることはむしろ自然なことだと、何度も自分に言い聞かせた。

 滑走路を移動していた飛行機が完全に停止した瞬間に、時間が動き出したような感覚があった。現地ではホームステイすることになっている。きっとホストファミリーの誰かが迎えに来てくれているはずだ。僕がこれまで一度も会ったことのない誰かが。日本にいたらきっと死ぬまで顔を見ることのなかった人達にこれから出迎えられる。何を最初に話せばいいだろう。「よろしくお願いします」と日本語で言っても、おそらく通じないだろう。なぜ通じないんだと思うのも違う。なぜなら自分を日本語が通じない状況に追い込んで、外国語を習得するという目的があるから。お金の問題ではないが、無料で誰もが望んで渡航できるわけではない。この経験を自分の糧にする以外の選択肢などなかった。

 ホストマザーは気さくな雰囲気だったが、僕は緊張していたんだと思う。自分の言いたいことが口から出てこずに、車内は微妙な空気になっていた。窓の外のずっと向こうの地平線には、まだ沈み切っていない太陽の気配が感じられた。道路の両脇にはただ平地がどこまでも広がっていて、時々見える背の低い木や石以外は何も見えなかった。白く見える地面が外の寒さを物語っている。地平線の向こうには一体何があるのだろう。あの沈んだ太陽は、今度は誰かにとっての朝陽なのかもしれない。10年以上経った今も、いつ果てるとも知れない道を進みながら、その向こうを見つめ続けている。

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