出口
もし世界に自分ひとりしかいなかったら、何も思い悩む必要はなく自由に生きていけるだろうか。二度と顔を見たくないと思っている人間の1人や2人くらいは皆いるだろう。もちろん僕も含めて。自分ひとりしかいない世界だから、どこに行って何をしようが他の誰の干渉も一切受けない。食べる物にも困らない世界で生きている。視線の中に食べ物が見つけられなくなったら、場所をその都度変え続ければいい。1日で端から端まで歩き回るにはあまりにも広く、それはほぼ不可能なことなのだから。
しかし考えるまでもなく、もし世界に自分以外の人間が存在しないとしたら、自分は一体どこから来たのかという疑問が残る。何もない空間に突然現れて、肉体と精神を得たとはどうしても思えない。今は目の前にいないだけで、知らないどこか遠くに誰かが住んでいるのかもしれない。最初は一緒にいたのに、途中でもう充分大人になったと判断されて自分ひとりで放り出された可能性もある。自分を解き放った存在を仮に「母」とした時に、自分が存在する為には母の存在だけでは成立し得ないのではないかと思い当たった。
母だけなら自分を含めて2人だが、「父」がいると少なくとも世界には3人の人間が存在することになる。彼も目の前にはいないので別の場所にいるはずだが、母と父がいるのなら彼らはまたどのようにして存在することができたのかと思い悩む。人間1人を存在させる為には、2人の人間が存在しないといけないことになる。そしてまたその2人の為にそれぞれ2人ずつ人間が必要になってくる。自分以外の人間がこの世界にいないということ自体が成り立たなくなった。そして人間の命は、人間同士の繋がりによって成り立っているということにはっとした。
自分ひとりの力だけで生きていると思っていた。ひとりで居続けることが最も自由なのだと信じ込んでいた。でも自分が存在する為には、他の誰かの存在が必要不可欠だということに気付くと、自分の命はもう自分だけのものではないような気がしてくる。何かが欠けると、その途端に今の自分はどこにもいなくなって、似ているか全く違う別の誰かがいることになる。この自分の精神というものも存在しなくなって、世界の仕組みに気付くことはなかったかもしれないし、あるいは別の人格であったとしても同じように謎を解き明かしたかもしれない。
世界に自分ひとりしかいないということは、時々とても寂しい。今生きていられることが、誰かのおかげだと気付いてしまったから。寂しいと感じながら生きるのは、果たして自由と言い切れるのだろうか。寂しいという感情を押しのけようとする時、実はその感情に支配されてしまっていることに気付く。その状態をもう自由とは呼べない。肉体的な自由よりも、むしろ精神的に自由である方が人間は伸び伸びと生きられるということも発見した。
世界のどこかに出口があるのならそれを見つけたい。必要ないと思っていた他の誰かの存在を、今ほど強く必要としている瞬間はこれまでなかった。顔を見てたった一言「ありがとう」を伝えたいと心の底から感じていた。そして次の瞬間、僕の身体は布団の上で横になっていて、二つの瞳は部屋の天井に向けられていた。窓の外からは通りを走っているであろう車の排気音が微かに聞こえてきた。平日のまだ肌寒い10月の朝。「ありがとう」を伝えたかった人は、今日も僕の隣で静かに眠っている。