励ましなど
人の心はある程度までは個人差があれど柔軟性がある。伸び縮みするゴムに例えられるかもしれない。ただゴムは伸ばし続けていると、いつか千切れてしまう。心だって同じようなものだと思う。心は直接目に見えないから、自分が今どれくらい伸び縮みを繰り返して疲弊しているのかは感じ取りにくい。「もう少し大丈夫だ」と繰り返し言い聞かせながら、知らない間に細かな傷が増えていく。前触れなく、ある日突然ゴムが切れてしまうこともある。大抵は本人がそうなるとは思っていないタイミングで。
「俺さ…」と言った後の言葉が続かない。胸の内が苦しいことは自分でも分かっているのだけど、自分の気持ちを100%伝えられる適当な言葉がうまく見つからなかった。うまく伝える必要などないのに、余裕などないはずなのに、要領良くやろうとする意識はまだ働いていた。感情が堰き止められないのなら、無理に押し留める必要など全くなくて、ただ流れるままに吐き出してしまえばよかった。それは誰かに対して恥じらいを抱くべき行為ではないし、むしろ自分の中の余分なものを綺麗さっぱり流してくれるかもしれなかったのだから。
僕はこれまで自分を精神的に追い込み過ぎて、限界を迎えた経験は記憶にない。それが幸せなことなのかそうでないのかは分からない。楽観的な性格をしていると思うし、感情を乱してもある程度時間が経てば冷静さを取り戻している。そうやってある程度感情の波をコントロールして、結果的に破綻しないように過ごしてきた。苦しい思いをしたことがないわけではなくて、そのことがずっと尾を引いて辛い気持ちになったことはほとんどない。倒れ掛けた時に自分の横で、もうひとりの理想の自分が立て直そうと必死に支えてくれている。例えるとすればそんな感覚だ。
誰もが皆同じような方法で、辛い時間を耐えて乗り越えているわけではない。何に苦しめられているのかが仮に分かったとしても、どれだけそれから距離を置いて過ごせばいいかも人それぞれだ。距離を置けば全て解決することばかりでもないだろう。自分の外側に原因があると思っていたら、自分を苦しめていたのは自分自身だったということもあり得る。誰の助けを借りようが、誰に何を相談しようが、乗り越える時には自分の力でと僕はいつも自分に言い聞かせている。そうでなければ困難を克服したとは思えない。
励ましの言葉だけで誰かを救えるのなら、誰も傷付かなくて済むのかもしれない。他の誰かから、もしくは自分自身にどんな明るく前向きな言葉を掛けても、心が少しも動かない時がある。それではいけないと思い込んで、更に負荷をかける。限界はとっくに越えてしまっているのに、ただその時には何も起こっていないだけ。立ち止まって考えるのは、その場所にずっと留まり続ける為ではない。全力で走りながら深呼吸をするのは難しい。全力で走り続ける為に、立ち止まって深呼吸をするんだ。