故郷

 鯛丸ごと1匹が捌かれて、プラスチックの大皿に盛られている。口は硬く閉じられているが、まだ透き通っている二つの瞳は天井を向いていた。大人2人で昼食に全て食べ切るには余りにも多い刺身の量だった。しかし喜んで余らせたいと思う。昼に食べ切れなければ、また夜に贅沢ができるということだ。水揚げ直後の味とは違うかもしれないが、癖がなく適度に脂が乗って食べやすかった。身が柔らかく、いくらでも食べれる気さえした。その姿造りが5,000円を切る価格なら満足感を考えても、とても割安だと思う。

 スマホの着信音が鳴る。特に珍しいことではない。僕の家族でLINEのグループを作っていて、頻繁に誰かしらが書き込んでいるから連続で鳴っていても驚きはしない。ただそれは一度だけ鳴って、後に続くことはなかった。相手が誰だか全く見当が付かないままに、内容を確認する。東京に来て最初に働いた職場で、同じ時期に仕事に就いたドラマーだった。ライブの誘いかなとも思ったが、今の現状では中々その内容で声を掛けるのは難しいかもしれない。しかし実際の文面は、予想していたものとは全く違っていた。

 彼曰く、ラジオで僕の地元が台風で大変だと聞いたというのだ。連絡を受ける少し前にTV電話で親の顔を見ながら、楽しく喋っていたから目を疑った。家族にも連絡したけど梅雨の雨のようだと言っていて、特に大きな被害に遭った話は出なかった。ただ地元とはいえ、地域によっては大変な目に遭っている人達がいるかもしれない。彼には知らせてくれた礼を言って、今のところ実家の皆が無事なことを伝えた。それはそれとして、彼が連絡をくれたのが余りにも久しぶりだったから、何だか新鮮な気持ちになった。東京で暮らし始めた頃のことを思い出す。

 慣れないスーツを着込んで、地元にいた時は一度も体験したことがなかった満員電車に揺られた。借りた家から最寄駅まで歩く間に汗をかいた暑い夏。寒いと思って羽織ったダウンジャケットで、ぶつかり合う電車の乗客達に埋もれている間に汗だくになった冬。小腹が空いただけなのに、少しの惣菜も高く付く駅前のスーパー。いつか必ず住んでやると思いながら、どこに何の店があるのか分からないまま歩いた下北沢。オレンジ色がどうしても見たくて、地下鉄を乗り継いで出掛けた東京タワー。味気ないオフィスワークの傍らで、くだらない話をした日々。彼がドラムを叩くバンドを観に行った渋谷の薄暗いライブハウス。

 上京してからもう5年以上が過ぎた。僕は決して故郷を捨てたわけではない。どうやって自分の生まれ育った土地を捨て去ることができるというのだろう。ただ大事なものがいくつあったとしても、僕はそれら全てを物理的かつ精神的に同時に手にすることはできない。捨てるか捨てないの問題ではなくて、何を選択するかということだと今も信じている。

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