100日
いつも朝7時過ぎに開ける分厚いカーテンが、今日目を覚ました時には既に引かれていた。数日前から続いている曇り空。部屋の中はいくらか明るくなったけど、薄暗いことに変わりはなかった。目覚めは悪くない。コーヒーはほとんど飲まないけど、水道水が冷たくて美味しい。伸びっぱなしの髪の毛がずっと気になっていたから、開店直後に行けるように家でシャワーを浴びる。浴室の空気は冷たい。ノズルから勢いよく出るお湯が、黙々と湯気を立て続けていた。
美容室にはかなり前から行かなくなった。5,000円前後の値段を出すほど髪型にはこだわっていない。1,000円で散髪ができる店に一度出掛けたことがあったけど、その時に髪の毛と一緒に耳をほんの少しだけ切られてからは、2,000円払って別の店に通っている。いつも同じ口調で「3cm弱切ってもらって、横は耳に少し掛かる程度で前髪は眉毛の少し上まで」と言った後は、ただひたすら目の前の鏡に映る自分の顔を眺めている。店員の態度が悪いとかは全くない。ただ共通の話題がなさそうな人とは喋り辛いと自分が勝手に思い込んでいるだけだ。
前髪がすっきりしていい感じになった。会計を済ませて外で傘を広げた。梅雨のような粒の大きい雨が傘を打ち続けている。台風が近づいていて雨は夜がピークらしい。そう言えば普段よりも風が少し強い気がする。履いているスニーカーの爪先部分から水が染み込んで、靴下が濡れている感触がした。そうなることは予想していたし今日は遠出する用事もないから、濡れたままもう少しだけ足を延ばすことに決めていた。大小様々な大きさの水溜りを避けながら、目的地まで急いだ。
茶沢通り沿いを三軒茶屋方面へ向かって歩く。途中で信号を渡って細い路地に入った。両脇を背の高い植物や樹木が埋めていて、喫茶店の裏側や2階建てのプレハブの建物を視界が横切っていく。曇り空が再度頭の上で顔を出して、周囲が少し明るくなった。角を曲がってそのまま道なりに進めば、北澤八幡宮に到着する。水音を放ちながら一段ずつ階段をゆっくりと昇っていく。賽銭を3人分用意して箱に放り投げた。木材の乾いた音と、それに金属が何度かぶつかる音が聞こえてすぐに止んだ。鈴を控えめに鳴らして手を合わせる。大変な世の中ではあるけど、毎日健やかに過ごせていることをありがたく思う。
帰り道はまた同じように茶沢通り沿いを歩いて帰った。昼過ぎにスーパーへ頼んでおいた魚を取りにいく予定があったが、散髪した時の細かい毛を流したくて再度シャワーを浴びた。いつもならいくら流しても髪の毛が手に残り続けるのに、今日は短い時間で済んだ。約1週間前に鯛の姿造りを注文していた。家で息子のお食い初めを行う為だ。本当は遠方の家族も含めて集まりたかったけど、今は中々難しいタイミングだ。高級な物は用意できないが、魚1匹くらいなら何とか奮発できる。時間通りに出掛けて、雨の中を乾杯のビールと一緒に家まで運んだ。
生まれて何日目であっても毎日が特別な1日だ。大人になってそのことをいつの間にか忘れていたような気がする。そして毎日成長する息子の姿が、いつもそのことを思い出させてくれる。