月かと思った

 この世界では失われて二度と息を吹き返すことのない命まで、記録に残す必要がある。他の誰かに推し量ることなど到底できない程のとても深い悲しみの底にいながら、何とか天井の小さな明かりを見つめ続けるような心境。どんな言葉なら、その気持ちが伝わるのか。伝えたところで、そこに何か救いはあるのだろうか。どんなに苦しくとも、前に進むことでしか答えが得られないのだとしたら、僅かずつでも歩き続けるしかない。無意識に吸って吐き出す空気のように、僕らはいずれそこに向かうことになるのだから。

 内臓と骨と筋肉、そしてその他色々な部品で身体は構成されている。部品といっても、それらは複雑に互いに干渉し合って動いている。動きながらそれらを意識するしないに関わらず、ほぼ自動的に身体の中では目に見えない何かが忙しく働いていることだろう。大きなゆりかごとでも言えばいいのか。なぜかいつも足の上に座らせると落ち着いてしまう。僕からは顔がよく見えないのだけど、お腹が空いている時以外はほとんど泣かずにくつろいでいるみたいだ。

 僕は布団や枕で作った背もたれに上半身を預けて、両足を前に伸ばした。僕のより遥かに短いその二つの足は、膝が直角に曲げられている。ガムを噛むんでいるように口を小刻みに閉じたり開いたりしている。小さな泡が3つ4つ集まって、唇の上で踊っている。もう寝る時間になっていたから、部屋の照明を落としていた。うとうとする様子もなくて、そのまま時間が過ぎていく。今夜は気温が低いらしい。でも大人が考えている以上に子どもは暑がりらしいから、10月でもまだまだ快適なんだろう。

 暖色のカーテンの向こうは、もうずっと前に日が沈んでいた。屋内にいるのに外の空気が何となく冷たい気がした。通りを走る救急車やパトカーの音も、夏の頃よりも澄んで聞こえる。虫達は一斉にどこかに身を隠してしまったようだ。車の音が止むと、もう何も聞こえなくなった。部屋の天井を見上げる。屋根がいつの間にか無くなっていて、空が見えていた。最上階でもないのになぜか空が開けている。近隣住民の生活音や、見えるはずの街のお店の明かりがひとつも見当たらなかった。いつか車で走った夜の高原で見上げた空。自分がその時どこにいるのかが一瞬分からなくなっていた。

 僕の方がうとうとしていたのかもしれない。部屋に戻った時には、天井はいつも通りに塞がっていて、外の空気も感じられなかった。お腹の上でまだ目を閉じずに、どこかを見つめ続けていた。ふと窓の方を見ると、白い明かりがカーテンの生地の隙間から漏れていた。それは何となく丸い輪郭をしている。隣はマンションだからそんなはずはないのだけど、それは青白い月のような優しい光だった。

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