音読
「音読」と言えば小学校の国語の宿題を思い出す。先生に決められた数ページ、もしくは教科書に掲載された物語ひとつをまるごと誰かに読み聞かせるという課題が頻繁に出された。音読を聞かせる相手は大抵は父親か母親だ。読み終えた後は、僕の記憶が正しければということだが、聞いてもらった人にサインか何かを書いてもらうという決まりだった。面倒臭いからといって、読まずに勝手に自分でサインしてしまっても、学校の先生にはなぜか気付かれる。親の筆跡を丁寧に観察しながら、同一人物が書いたように真似をしてみても、きっと先生は気付いていたに違いない。
その音読の宿題も、中学生になるとほとんど課題としては出されなくなった気がする。当時の僕には今程読書をする習慣はなかった。全く本を読まないわけではなかったが、一定のペースで読んではいなかった。自分で自由に使えるお金はほとんどなかったし、気に入った本があっても裏表紙に書かれた価格を当時の僕は高いと感じていた。週初めの週刊誌を読むために極力欠かさず書店に通って、当時流行っていた少年漫画だけは読み続けた。当時から連載を続けている漫画は、本当に少なくなってしまったけど、今は週刊誌の数冊くらいなら自由に買えるくらいの経済力は手にした。
主に今は小説を読んでいる。時間がある時は1日に数百ページを読んでしまえるけど、本だけ読んで生活するわけにもいかないので、最近は細切れになって1冊読み終えるに1ヶ月かかる時もある。そして基本的に僕は小説を音読することはない。ただ僕だけではないのではないかと思う。割合がどれくらいと聞かれたら明確には答えられないが、多くの人は声を出さずに目で字を追いながらページをめくっているはずだ。瞳が追っているのは紙に印刷された文字だけど、頭が追っているのは文字から連想される光景であり、その中で躍動する登場人物達だ。
小説を音読したことがないからといって、小説は音読しない物とは誰も決めていない。音楽は主に聞く物ではあるけど、歌詞カードに書かれた文字を言葉にして音読してはいけないとは決まっていないように。それは決まっていないというより、小説を手に取った自分以外の誰かに、その楽しみ方を委ねる必要は全くないということだ。僕は気に入った小説やその他書籍を繰り返して読むことがある。1回読んだだけでは内容を完全に把握できないということもあるし、話の筋を理解した上で次に読む時にはそれ以外の要素に集中したいという狙いもある。2回目以降に読み始める時には、一度読んだことがあるということは忘れて、初めて読む気持ちでいるようにしている。ただそう自分に暗示をかけても、結局話の筋は思い出すことになる。それはそれでいい。要はそういう心構えでいる方が、新たな発見をしやすいと思っている。
自分の息子に絵本を読んでいる。平仮名だけの文章と、シンプルなイラストがページの左側と右側に並んでいる。文章の間には、おそらく句読点代わりの空白が空いているから、初めの何回かはそこで区切って読んでいた。しかし繰り返し読んでいる間に、空白の位置が自分にはしっくりこなくなってくる。その感覚が日本語として間違っているかどうかは別にして、文章全体も違う読み方をしたくなってくる。幸い息子は、どんな読み方をしても声をあげて反応を示してくれるが、大きくなったら好き嫌いも出てくるだろう。何通りの読み方ができるかは分からないが、できるだけ彼を飽きさせずに読み続けられたらと思う。彼が、彼自身のお気に入りの物語を見つけられるまで。