当日
今の僕がこの身体で、大病もなく健康に過ごせていることはとても幸運なことだ。もっと言えば、生まれてくる前段階で既に膨大な数の命の元がふるいにかけられ、たった一つが選ばれた。約10ヶ月間を胎内で過ごし、無事にこの世界に出てこられた。もし父と母が出会っていなければとか、もし祖父母達が出会っていなくても、僕とは全く関わりのないところで命の連鎖は続いていたかもしれない。しかし今僕は親になって、新たな命をこの世界に迎えて既に数ヶ月が経っている。毎日色々な葛藤や苦悩はあるけれど、それ以上に毎日発見の連続だ。
僕は長男として生まれたけど、初見で長男だとはほとんど言われない。世間の長男のイメージが、余程しっかりして人間の出来た人物なのかもしれないが、僕は自分がそんな要素を持ち合わせているとは思えない。だから気にしない。いや、全く気にしないと言い切れないところが、ある意味僕の悪い癖なのかもしれない。「敢えて言うなら、優し過ぎるところかな」と一度言われたことがある。その言葉の意味をずっと考え続けている。
面倒見が悪くはないが、人見知りの気がそこそこある。金遣いは派手ではないが、人に自分で御馳走したいという気持ちがないわけではない。優しいか優しくないかと言われたら、普通だと思っている。優し過ぎるというのは、あるいは何かを我慢し過ぎるとも捉えられる。学生の時は確かに、自分の本心を堂々と誰かに打ち明けたことはあまりない。かと言って口が達者というのでもないから、話の流れで聞かれればやんわりと誰も刺激しないことを祈って喋っていた。良いか悪いかは別にして、本当は断りたくて仕方なかった誘いも、断りきれずにいたことが何度もあった。
悪い仲間に出会ったとかではない。ただ僕は自分以外の誰かに、簡単に寄り掛かろうとするまいと決め込んでいたのかもしれない。もしくは自分の正直な気持ちを話すよりも、それを言葉にした時の他の誰かの心情を悪い方に想像して尻込みしてしまっていたのかもしれない。嫌われるくらいなら、波風立てない方が楽なのではないかと思っていた。どちらにせよそれは優しさというより、ただ自分のことを守りたかっただけだと思う。正直に自分の願望に沿って生きるというのは、大なり小なり知らずのうちに誰かを傷つけたり落胆させることがある。自分の望みと、他の誰かの望みが完全に一致することは難しい。自分は自分と、ある意味割り切って堂々としていればいいんだ。
今朝、母からLINEでメッセージが送られてきた。何事かと思ったら、僕と同じ漢字の名前の人物に出会ったとのことだった。同じ読み方をする人なら決して少なくないと思う。でも同じ漢字の人に僕自身はまだ出会ったり、その存在を見聞きしたことはなかった。とても気に入っている漢字だから、ちょっと不思議な気持ちだ。もちろん全く違う人間なのだけど、母が教えてくれたその人は高齢の男性らしいから、何世代か後の定期的なサイクルで僕が生まれてきたのかもしれない。それは流石に想像が飛躍し過ぎたかな。
僕は魚貝類が好きだ。今日は少し贅沢をして海鮮丼を食べよう。濃厚なショコラにろうそくを刺して火を灯そう。勢いよく吹き消したら、また明日も胸を張って生きていく。