前日
僕が生まれた病院は、海沿いの小さな町にある。太平洋の反対側には山並みが連なって、沈む夕陽をより一層美しく見せてくれる。今もその病院はそこにあって、地域の人達の助けになっているだろうし、こうしている間にも新しい命の誕生を迎え続けているはずだ。散髪に出掛けた父の後をひとりで追いかけ、遮断機が降りた踏切では電車が過ぎ去っていくのを止まって待った。立小便をしていたという誰かの話が本当かどうかは、今はもう確認のしようがない。歩き続ける幼い僕を呼び止めてくれたのは、その病院の看護師だったそうだ。親が迎えに来るまでの間に飲んでいたはちみつレモンは、今でも僕の数少ないお気に入りの清涼飲料水だ。
それから約30年以上が過ぎた。この先何歳まで生きられるだろうか。僕には分からない。他の誰かなら分かるとも思えない。未来のことをどれだけ一生懸命に考えたって、実際のところはその時にならなければ分からない。備えるということは、未来を透視することではないから。僕が手にしているのは、今のこの瞬間だけだ。病院ではちみつレモンを飲んでいた僕の年齢よりも遥かに若い息子は、今日は朝から1日元気にしていた。昨日は突然発熱したから内心そわそわしていたけど、舌をぺろっと出して笑う彼を見て一安心した。
誕生日というのは自分が生まれた日ではなくて、母に産んでもらった日だと思うようにしている。何もない全くのゼロの状態から人ひとりが誕生することなどあり得ない。命の元とでもいうべき精子と卵子の存在が欠かせない。そしてそれらを作っているのは人間の存在だ。じゃあ一番最初のいわゆる生命というのは、突然ある日ぱっと出現したのだろうか。それとも何か人智を越えた存在によって生み出されたのだろうか。その謎はきっと僕には一生解けないだろうけど、僕が母のお腹から出てこれたというのは疑いようがない。
息子が20歳になった時の僕の年齢は、おそらく僕が20歳になった時の母の年齢を越えているだろう。父が当時の僕に感じていた思いと、今僕が息子に感じている思いは同じかもしれないし、全く違うことを思っているかもしれない。当時と今とでは世の中の状況も違うし、世間の子育てにたいする認識も違っているはずだ。育てやすいかどうかということについては、単純に比較して結論は出せないと考えているが、暮らしは遥かに便利になっている。電子機器を使っていると特にその恩恵を感じる。現金を常に持ち歩かなくても、スマートフォン1台あれば買い物もできるし電車にも乗れる。たくさんの荷物を抱えて出掛ける必要もなくなった。
いくら生活が便利になったとしても、人間を育てるということが簡単になったという話は聞かない。どれだけ身体が未熟で小さくても、自分の分身ではないから、親の思うままに行動するとは限らない。そうでないことの方が多いかもしれない。想定外のことがあると、自分のやりたいことの時間を削らざるを得ないこともある。僕が苦労だと思っていることを、きっと両親も同じように思っていたのかなと考える。
いつまでも泣き叫ぶ子どもに「もういい加減にして」と言う声がどこかから聞こえた。「もういい加減にして」と言いたいのは本当は子どもの方ではなかろうか。僕も時々そんな風に感情を乱してしまう時がある。その度に自分の不甲斐なさを恥じているのだけど、きっとそれすら後で思い返した時には懐かしいと思える。息子の寝顔を見ながら、誕生日の前日にそんなことを考えている。