弔い

 人間はどうしようもない程避け難く、皆いつか死を迎える。それと同時に永遠にも似た時間を過ごしているような感覚を時折味わう。それは本当に心の底から永遠に続けばいいという、叶わない願いにも似ている。生まれも育ちも違う人間同士が、何かの縁で出会って人生が交錯していく。ある人は誰かと道が重なり、またある人は点として一旦重なるけど、その後は別々の方向に線が伸び続けていく。そして生きている時間を実線として表すのなら、誰しもいつかその線がどこかで終わりを迎える。

 長く一緒にいればいる程、それが当たり前になって疑うことも無くなって、一緒に過ごす時間がいつまでも続くような錯覚に陥る。本当は心の奥底で分かっていても、考え出すと不安になるから敢えてその気持ちには蓋をしてしまいたくなる。いつでも会える距離ではないのに、いつでも会えるような気がしていた。話したいことがたくさんあったかもしれない。でも普段は無口なあの人が、自分からあれこれと喋って話が尽きないなんて状況は考えられない。言葉はただの記号で、伝えたいことは大抵の場合うまく言葉にならない。

 寸分違わず隣で一緒に歩き続けたわけではない。だから知らないこともたくさんあるかもしれない。でも過去には寄り掛かっては生きられない。時間は進み続けていて、進めば進む程過去は遠ざかっていくから。足を踏み出せるのは今で、踏み出す方向は未来でしかない。いつまでも連れ添っては歩けないかもしれないが、一緒に過ごした時間は思い出として蘇る。網膜を通すよりも鮮やかに映って、時折襲いくる心の空白を埋めてくれる。それは決して過去に生きるという後ろ向きな態度ではなく、明日への力強い一歩の一助となるから。

 青春には、良いこともそうでないこともたくさん詰まっている。外が少しずつ暖かくなって、雪で固められていた土もほぐれていく。水が大地に染み込み、冬の間じっと耐え続けていたもの達を潤す。太陽の光は優しく照らし、生き物は温もりを取り戻していく。夏にはまだ早い早春。勇足で飛び出して手痛い思いをすることもあるだろう。ぶり返した冷たい風に首を竦めながら歩いたんだろう。ずっと良いわけでもなく、ずっと悪いわけでもない。ただ人間が拙かっただけだ。向かうべき道すらも分からず、手当たり次第に触って傷付けていた。一番傷付いていたのは自分だとも知らずに。

 言葉だけでは余りにも頼りない。言葉にならないのなら、静かに目を閉じて思い出す。四六時中でなくてもいい。忘れないということこそが最高の弔いではないか。人間は忘れていく生き物だとしても、せめて自分の中だけではいつまでも抗って記憶と感情に繋ぎ止めておこう。言葉にならない祈りが、必ず届いていると信じて。

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