霧の目隠し
肌寒い朝だった。曇り空ではあったけど、窓の向こうの景色がまだ闇に紛れてしまう前に、押入れから羽毛布団を引っ張り出した。もう夏の暑さは二度と戻らないだろう。秋だと思っていたら、あっと言う間に冬になるはずだ。まだかろうじて半袖半ズボンで出掛けられるが、吹き荒ぶ風にはもう熱を感じなかった。羽毛布団に包まっていても、着ているものは変わらない。息子の声で目が覚めて、おむつを変えて用を足したらまた布団に潜り込む。
冷たい風に乗って、その知らせはやって来たのだろうか。仕事は休みだったけれど、いつも使っているレンタカー屋に空いている車があるかを確認する。パソコンを開いて予約が出来るか試したが、当日の出発かつ時間がギリギリだからなのかうまくいかなかった。店舗に直接電話をかけてみるが、生憎今日は満車だという。他のレンタカー会社にも片っ端から連絡したが、結果は同じだった。週末だから当然と言えば当然なのかもしれない。皆どこに向かうのだろう。
外は小雨が降り続いている。冷たい雨だ。夏が過ぎ去ったことをあからさまに知らせる雨だ。でも足首を蚊に噛まれたらしく、小さく膨れている。しぶとい。出掛ける為に荷物を全て乗せて、路駐していた車に乗り込んで走り出した時に気付いたが、そのままアクセルを踏み込んだ。もう時間は昼過ぎになっていた。高速道路の入り口までの道は混んでもいないし、空いているわけでもなかった。前を走る車のタイヤが路面の僅かな水分を霧のように巻き上げている。ワイパーがフロントガラスに張り付いた微細な水滴を薙ぎ払っていた。
もう皆移動した後なのだろうか。進めば進むほど道を走る他の車の数は少なくなっていく。電光掲示板に表示された雨の為の速度規制表示が霞むほどの霧雨の中を、1台のワゴン車が速度を上げて横を通過して行った。雨など一滴も降っていないとでも言わんばかりのスピードだった。僕がハンドルを握っている車は、濡れた路面でアクセルを踏んでも柔らかい泥の上を走っているようで、前に進んでいる感覚は次第に薄れていく。時折雨が降り止んで、ガラスに付いていた雨もすっかり無くなってしまうと、眼前を行き来する細長く湾曲したワイパーの動きが急にやかましくなる。
やがて目的地までの最寄りの高速道路出口に辿り着く。ETCのゲートを無事に通過したことは音声では知らされない。ただ「通行可」という文字が機械的に表示されるだけだ。一度も青空を見ることなく曇り空も濃くなっていき、山道を走り始めた時には霧が相当深くなっていた。深い霧が大きな口を開けて、ヘッドライトが放つ光も車すらも全て飲み込んでしまうような恐怖を感じた。ただ標高が高いだけではない独特の濃密な空気に満ちていた。