波の向こう
夕暮れ時の海には、水面で波を待つ人影がまばらに見える。蒸し暑かった夏もいつの間にか終わりを迎えようとしている。今年は一度もここには来られないだろうと思っていたけど、いつの間にか自然と足が向いていた。西の空に沈もうとしている太陽の光は、まだ眩しく海面に当たってギラついていた。賑やかに立ち並んでいた海の家も、骨組みだけになって来年までどこかに片付けられようとしている。砂にまみれてざらざらになったサンダルは気にせずに、波打ち際までゆっくりと歩き出した。
自分の店を持ちたい。きらきらと輝く瞳の黒がどこまでも透き通っていた。いつもはあまり自分の話をしたがらない彼には珍しいことだった。決して饒舌とは言えないが、明確な意志をそこに感じた。最後に彼に会った時に、借りていた本を返そうと思っていたけど、思いがけず険悪な雰囲気になってしまってそのままになっている。数少ない友達のひとりを永遠に失ってしまった不安も今はもうかなり薄れてしまったけど、この先元の持ち主の手に戻ることのないであろうその本は、今でも書棚の隅で静かに表紙を捲られるのを待っている。
太陽は西の山に姿を隠し始めた。薄い雲と青かった空は、オレンジ色に染め上げられている。透明な水でもなく、潮の香りでもなく、このオレンジ色の景色に僕の胸はどうしようもなく震える。思い出すのは遠い日の記憶。二度と思い出すことはないと決めていたはずなのに、頭を巡るのはむしろ苦い思い出の方が多い。良いことも悪いことも、どちらが欠けていても今の自分には辿り着けなかった。何度もそう言い聞かせて来たから、今では火元から遠い場所で眺められるようになった。
自分の時間が欲しい。その人は静かにそう言い放った。正直に「もう会いたくない」と言えばよかったのに、とても周りくどい人だった。電車を降りて坂道を登った途中にあった駐車場。他にも何台か止まっていた車は、見晴らしのいい高台の公園から降りてくる人達によってその台数を減らしていった。さっきから勢いを増している雨。会話の間の沈黙は、天井を叩く雨音では埋められない。もう時間だけが早く過ぎて欲しいと、自分勝手な考えに囚われてしまっていた。終わりが来ると知っていても、最初から最後まで器用に立ち振る舞えないままの自分は今でも変わっていない。
海風が心地よい。太陽が完全に沈んでしまっても、まだそこには昼間の暑さを感じる。空はすっかり暗くなってしまって、星の輝きが鮮明になった。星達を見守るように、控えめに光を放つ月も出ている。月の光はもうすぐ訪れる秋の気配をその神秘的な佇まいで知らせてくれる。虫達の鳴き声は聞こえない。無数の小さな水泡が弾ける音と、細かな砂の粒が掻き混ぜられる音が重なり合って、波打ち際は賑やかだ。風が吹いている。海の向こうのずっと先からやってきて、心の火照りを冷ましていく。