信仰心
入学式。若さ故なのか、それとも世間の常識を知らなかっただけなのか。なぜか僕は事前に用意してあったスーツを着ずに、普段着で入学式に出掛けていた。自分だけではないだろうというより、自分以外の誰かも普段着でいてほしいという祈るような気持ちだった。そして案の定、そんな見た目で出席している人はどこにも見つけられなかった。自分で決めたのなら最後まで堂々としていればいいのに、スーツ姿の同級生の中で自分だけ場違いな格好をしているのが、とても恥ずかしいことのような気がして、一刻も早く家に帰りたくなっていた。
入学式が終わると、全員が巨大なお堂のような場所に移った。何をするのか分からないまま正座で座っていると楽器の音が鳴り出す。ぼぉーっとしながらその聞いたことのない音楽を聞き流していると、突然周りの皆が低い声で囁くように何かを歌い出した。そしてゆっくりと手を動かし始めたのだ。皆で事前に予定していて何かの合図で一斉に動き出したかのようなその光景に、僕はとても驚くと同時に居心地の悪さを感じてしまった。無宗教ではあるけれど、信仰心がないのではない。信仰心があるということと、皆が決められた同じ服装に身を包み同じ所作と言葉を使うことは全く別だと思っているだけなのだ。
「生きていくには、拠り所が必要だ」と言われたこともある。生きていく上で、自分の心の支えになっているものや人は既にあるとはっきり言った。実在するかどうかも分からない。事実として証明できるものでもない。自分が不確かだと感じている存在を拠り所とする気は全くない。育ててくれた両親がいるし、面倒を見てくれた親戚の人達、そして一緒に遊んで時間を過ごした兄弟姉妹や従兄弟従兄弟達。今の自分があるのは誰のおかげかと考えた時に顔が浮かぶ人達の存在が、紛れもなく僕にとって拠り所になるものだ。フィクションでもないし言い伝えでもなく、僕にとっての真実がそこにはある。
宗教を信仰することの善悪は僕には判断出来ない。なぜならきっと本当にそれを拠り所としてしか生きられない人達もいるだろうから。僕だって現にやっとお宮参りという名目で、近所の神社に息子と一緒に参拝に行ったし、生まれる前に何度も通って手を合わせた。それは神様がいて崇拝しているというのではなく、自分で言うのもなんだが願いが届いてほしいという控え目な祈りだ。どんな状況になっても受け入れる覚悟を持ちながら、例えば自分以外の誰かの幸せだけを思って目を閉じる時間。例えば生まれてからまだ一度も顔を見ていない子どものことだけを考えて、健康で退院出来ることを祈る気持ち。結果がどうであれ、生きていられるのなら「ありがとう」と無言で唱える。誰が見ている見ていないとか、人数が多い少ないだとか、そんなことは僕にとって重要ではない。
僕がそうでないと思っていても、今の生活習慣の中には宗教由来のものがあるのかもしれない。それでも僕の拠り所というのは、経典でも神様でもないということは断言する。僕を支えてくれる人達は、いつも一番近い場所にいるのだから。