省みる事
今住んでいるマンションの入り口のオートロック。夏も終わろうとしているのに最近になって蚊に喰われることが増えた。入り口の鍵を開けるのに手間取っている時に血を吸われているのかもしれない。部屋に入ってからも2回くらい蚊を見つけてやっつけたら、血と一緒に潰れた。それが確実に僕の血液だとは言い切れないけど、誰の血であれ足が痒いことに変わりはない。痒み止めは大抵ある程度擦ってから塗るので、染みるし治るまで時間が掛かる。何ともないと自分に言い聞かせながらも、手がもうそこに伸びているのに気付く。
落ちているそれが、煙草の吸い殻である事は簡単に分かる。それを誰かが吸っている場面を見てはいない。風に飛ばされてやってきたのかもしれない。あまり現実的に起こりそうではないけれど。もし住居の入り口で誰かが煙を蒸した後に吸い殻を捨てていったと仮定しよう。僕は自分の健康を害したくないから吸わないと決めている。でも他の人がどうするかは、個人の意志だから尊重したい。煙草だけではない。使い捨ての物は必ずその後ごみになる。それは仕方ないのかもしれないが、人の住居入り口にごみを捨てるな。そこはごみ箱じゃない。喫煙所でもない。駅前に喫煙所があるから、そこに行けばいい。吸う人も吸わない人も気持ちのいい社会というのは、お互いへの尊重の気持ちが出発点だろ。
そうやって自分以外の誰かの行為を言葉で非難するのは、とても容易い。なぜなら自分のことは一旦棚に上げて発言するからだ。もちろん自分自身の行動にも照らし合わせた上で言葉にしている人も少なからずいると信じている。しかし今は匿名でいつでも好きな時に、好きなことをインターネットの色々な場所に書き込める。非難の対象になっているのは、大抵は芸能人や政治家などの世間への露出が比較的多い人々だ。まるで実際に会って話をしたことがあって、その上で発言をしているようだが事の真偽は怪しい。お互い同じ人間のはずなのに、匿名で露出もない人間達はいつから偉くなったと勘違いし始めたんだろうか。
自分の目で直接確かめられない事で、人から聞いた話をどうやって100%真実だと決め付けられるのだろう。可能性があるというだけで、本当にどうだったかというのは確かめようがないだろう。想像力を働かせて考えられる可能性を挙げることは出来る。その可能性を元に意見を言って話をするのならまだ健全と言えるかもしれない。しかしどこまで行ってもそれは可能性の枠を飛び出すことはない。簡単に飛び出すべきではない。それよりも自分自身の生活や行動を省みる機会とすればいい。僕が変化させられるのは自分の考え方や行動なのだし、生きている時間は有限だ。いつまでなのかはその時が来ないと分からないが、今のところは間違いなく無限ではない。期待をするのは、いつでも自分自身でありたい。