東の磨りガラス
11月の早朝に東の空から太陽が昇る。正確に言えば僕は家で布団に包まっていたから、直接太陽を見たわけではない。それでも部屋の東側に付いていた大きな窓の波打つ磨りガラスがぎらついて眩しかったから、間違いなくそれは太陽の光だと思えた。前日の夕方から出掛けて、そのまま家に帰らず僕とずっと一緒にいて、夜が明けてもまだ身体を寄せ合っていた。毛布を被っていたからだろうか。空中を微かに漂う小さな埃が、短く一瞬だけ光の細い線を描いたように、控えめにちらついていた。
特に何かをするわけでもなく時間が穏やかに過ぎ去って行く。もうきっと引き返せない所まで来たような気がしていたけど、それは僕が望んでいた事なのだから全く構わないと思った。その日は天気がとても良かった。12時が近付いてきて空腹を感じる。特定の何かを食べたいという気持ちよりも、一緒に昼ご飯を食べれるという事がまだ何だか信じられなかった。初めて誰かを好きになった10代はもう過ぎているはずなのに、理由もなく浮かれていたんだと思う。
緩やかな登り坂になっている路地の途中にカレー屋があった。当時住んでいた部屋からも歩いていける距離だったので、昼食をそこで食べる事にした。カレーと言えば欧米風のどろどろとしたルーのイメージしかなかったし、それ以外のカレーを食べた事はそれまでなかった。スープカレーという物を食べたのは、その時が初めてだったかもしれない。スープカレーと言うだけあって、スパイスのかなり効いたカレー味のスープが運ばれて来た。じゃがいもやにんじんといった家庭で作る一般的なカレーとは違って、具材がそれぞれ大きくてダイナミックに盛り付けられていた。
そのスープカレーは程よく辛味が効いていて汗が止まらない。流石に11月だから、涼しい顔で最後の一口まで食べ終えれるだろうと踏んでいたが、スパイスの辛味に加えて店内の暖房が予想以上に効いていて上着を脱ぐまでに時間は掛からなかった。彼女が注文した器には大きな骨付きの鶏肉が添えられていて、フォークで簡単に解ける程柔らかく美味しかったことを今も覚えている。カレーを食べ終わった後はどうやって過ごしたんだろう。肝心な事を時々忘れてしまうことがあって、自分に呆れてしまう。でもこれからもその日の出来事は何度も思い出すことになるだろう。
言葉で具体的に説明など出来ない。敢えて言うなら、と誤魔化してもそれは自分の本心ではない。誰かの幸せを願うことに理由など必要だろうか。本当に誰かの幸せを強く願っているのなら、例え自分が一番側にいられなくてもいいと思えるだろうか。しかし一度くらいはそのチャンスに懸けてからでも遅くはないだろう。そして僕は素直でありのままの自分を賭ける事で結果的に選んでもらえたと今でも思っている。我儘で頑固で融通のあまり効かない人間と一緒にいるというのは、僕が逆の立場でもかなりエネルギーを使うのではないかと勝手に想像している。それでも一緒にいてくれてありがたいと思う。ありがとう。