埃を吹いて

 電源スイッチを切ってコンセントからコードを抜く。空気清浄機の前面に付いたパネルは、側面の下部の出っ張りを押すと簡単に外れる。パネルの下の大部分を占める幾つかある最初のフィルターには、一体どこから来るのか不思議な程の大量の埃が張り付いている。頻繁に掃除すればそんな事にはもちろんならないのだけど、最近はしばらく手を付けていなかった。日常的に部屋の中が埃っぽいわけでもないが、何気ない暮らしの中での自分達の動きが少しずつ塵や埃を集めて来て、まさに「塵も積もれば山となる」状態だった。

 空気清浄機の向かい側、ちょうど2つある部屋の真ん中辺りの床に、白いサーキューレーターが黙々と首を振りながら風を吐き出し続けている。電源を繋いでボタンを押せば当然の様に動き出すのだけど、目には見えないだけで本体の後ろの空気が吸われて前から吐き出されている。そしてその空気の流れの中には空中の埃も混じっているわけで、空気を綺麗にしてくれる機能はないが、吸わざるを得ない物は確実に吸い込んでいる。その証拠に、空気清浄機に負けず劣らず埃がまばらに付いてしまっていた。

 空気清浄機の掃除はとても簡単だ。先程のパネルを外した後は、掃除機の先端を短めのブラシに変えてひたすら吸い続ける。奥まっていたり、狭い隙間はないからすぐに終わってしまう。それに比べてサーキューレーターは手間が掛かる。羽にはガードが付いているので、そのまま掃除機は突っ込めない。ガードはネジ止めされているので、ドライバーが必要だ。それを取り外しても羽とその周りを囲む本体の間が狭く、掃除機のアタッチメントを細い物に付け替えてもうまく吸えない。仕方ないから、説明書には書いていない箇所のネジを慎重に外す。それで少し隙間が広がって何とか8割くらいまでは綺麗に出来た。

 掃除をするのが好きか嫌いかと言われたら、好きだと答える。但し1日中ずっと掃除機を引き摺ったり、タオルを何度も絞って何かを拭き続けるというのは得意ではないかもしれない。例えば引越しや断捨離をしようとなった時に、必要か不必要か選別して片付けるのは得意だと思っている。所有物は一旦捨ててしまえば、買い足す事をしなければ時間の経過で自然と増えはしない。それに比べて埃や汚れはどれだけ綺麗にしても、時間が経てば多かれ少なかれ溜まり始める。自分の部屋から取り除いただけで、家を出入りすれば当然そこに空気の流れがあるので、思い掛けず色々な物を知らずに呼び込んでいるはずだ。

 人間の精神と肉体も同じではないかと考えた。心臓は死ぬまで動き続ける。呼吸も同じようにずっと続く事になる。一定の年齢まで生きると、肉体は少しずつ衰え出す。身体を動かしても動かさなくても、その環境に応じて肉体は適応しようとする。精神はどうか。大人になって自分以外の色々な人間や文化に出会って、考え方も変化していくだろう。それ自体が間違いだとは言わないが、そういう物が全くなかったとして、本来の自分の望みが何だったのかを埋もれさせていないか。それが何だったのかは、自分にしか分からない。失くしてしまったら、他の誰も代わりに見つける事は出来ない。だからどんなに辛くても、見失うわけにはいかない。

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