握った手の平
付けっぱなしのエアコンの冷気が逃げないよう、部屋は大抵閉め切っていた。空気を入れ替える為に窓を開けると、吹き込んでくるはずの熱風を感じなかった。数日前に冷房の効きが弱いと感じてフィルターの埃を吸ってからは、送風口からの風が弱まる事はほぼ無くなった。15分くらい窓を開け放っておいたけど、部屋の中が外気で暑くなる事はなく、むしろ逆に部屋の空気もより外気の方が低いんじゃないかと思いたくなるような曇り空だった。やっと涼しくなりそうだと言葉に出さずに期待しながら、散歩に出掛ける。
生まれた時からずっとそうだったんだろう。本当に身体の芯から脱力している時にしか彼の拳は開かれない。無理やり開いてみても、意識的にか無意識かすぐに閉じている。無理やり開いて、僕の指を手の平に置いてみる。それでもすぐに置いた指をぎゅっと握ってくる。鼻を近付けてその匂いを嗅いでみた。何と言えば伝わるだろう。それは例えば茹で上がったばかりのとうもろこしの匂いだ。朝起きてから自分の拳を握り続けて、風呂に入る時も握り続けて、夜寝る前にやっと開放した時にも同じ匂いがするかもしれない。
そんな頑な拳を、僕の手の平に大切にそっと乗せて眺めていたのが遥か昔の事のように感じる。確かな事はその頃よりも一回り手が大きくなっているという事。元々しっかりした手の平と指だったが、最近はそれがより顕著になっている気がする。今はまだ自分から何かを掴む事はしないが、手作りのプレイジムにぶら下がっている音が鳴るおもちゃを時々触っている。控えめな鈴の音が鳴る度に、何やら独り言を喋っているようだ。まだまだ手が離せない時期ではあるけれど、いつかは違う他の誰かの手を取って幸せになってほしいと思っている。
そんな先の事まで今過剰に心配していたら、きっと精神が持たなさそうなのであまり考えないようにしたい。何と言っても彼にとっては、今日1日でさえかなりの刺激になっているはずだから。起きている時間が少しずつ長くなっている。まとまった昼寝も最近はあまりしなくなった。病院の先生からは「肥満児になりたくなければ、完全母乳で育てるべきだ」と言われ、育児専門書にはミルクだけだと消化が悪く肥満児になりやすいというのは根拠がなく気にする必要はないとも書かれている。初めての子育てなのに、あれこれと違う説明をされても、正直なところ混乱するだけだ。根拠がないと言われる説を、医者が力説しているのもおかしな話にしか思えない。
「2人のやりたい子育てをすればいい」。そう言ってくれたのは今までにたった1人だけだった。何が正解か分からず肩肘張っている自分達にとって、その言葉がどれ程の救いになっているか。唯一の正解がない以上、専門的な話の前に一言その言葉を言ってもらえれば、落ち着いて子育てに向き合える。