注射の針
自分の身体が元々持っている免疫だけでは、防げない病気がある事は経験的に知っている。これまで何度も予防接種で注射を受けて来たし、健康診断の採血の為に針が皮膚に刺さった事も何度かある。針が刺さった時に薄皮がわずかに盛り上がる感じを見ると、なんとも言えない心地になる。去年は久しぶりにインフルエンザの予防接種を受けに出掛けた。想定していたよりも注射針が刺さっていたであろう時間は短く、あっという間に終わってしまって、こんなものだったかなと拍子抜けしたのを今でも覚えている。
とは言え、やはり僕が注射に苦手意識がある事には変わりがない。そんな苦手意識が息子に遺伝していなければいいなと思っている。生後2ヶ月が経過して、初めての予防接種の為に出掛けた。外は相変わらず暑い。日陰を探しながら歩くのだけど、日陰にいても体感的にはほとんど変わらず汗が止まらなかった。行きは緩やかな登り坂で、じっとりと体力を奪われる。途中の工事現場で威勢の良い声を挙げながら、工事車両を誘導している女性に感心しながら病院を目指した。
病院に着いた時には、既に数組の親子連れが待合室で待機していた。両親と一緒にいて、ベビーカーに座っている男の子。お母さんと姉妹であろう女の子2人。幼稚園の年長くらいの男の子。目的は違うのだろうけど、それぞれがそれぞれの来院目的を果たす為に落ち着いた様子で思いおもいに過ごしていた。受付に書類を提出して用件を伝えたらソファーに座って順番を待っていた。1組ずつ診察室に呼ばれていく。呼ばれるのと入れ替わるようにして別の親子連れが奥から出てくるのだけど、皆一様に子ども達の表情が穏やかではなかった。
診察が終わったであろう子ども達だけではない。名前を呼ばれて奥に入っていったはずの子ども達の叫びにも近い泣き声が院内に響き渡る。息子は妻の腕の中で微動だにせず眠っている。おそらく極とても近い目の前の未来に、同じ体験をして同じような声を挙げる事になるかもしれないが、そんな予感も彼の眠りを妨げる事はないようだった。YouTubeで何度も見た幼児が予防接種を受けている光景。大した事はないという顔を作ってはいたけど、実際のところはどことなく落ち着かなかった。
最初に名前を呼ばれた時には、別の人が呼ばれたのかと思ってうまく反応出来なかった。自分達が呼ばれている事を改めて認識して、奥の部屋に荷物を持って進んでいった。清潔感のある小さめの診察室には女性医師がパソコンの前に座っていて、穏やかに挨拶をしてくれた。前回来院した時には妻だけだったのでどんな先生かと気になっていたが、優しそうな先生で安心した。一通り説明を受けた後に、金属のトレイに並べられたワクチンが目の前に置かれた。何本打たれるのだろうと思っていたら、注射3回と飲むワクチン1種類とのことだった。
初めての感覚だろう。言葉を知っていても、言葉ではうまく表せない痛みは息子にとってどんな感情に変わるのだろう。顔を真っ赤にして泣いたと思ったら、すぐに落ち着いた表情を取り戻した。針が刺さっているのはほんの数秒だが、僕はいつも長く感じている。ワクチンは人類が病と闘い続けて来た証でもあり、同時に生物が生き続ける限りこれからも未知の脅威が完全に無くなってしまう事はないのかもしれない。そんな時代に生まれた事には何かきっと意味があって、そんな時代に親になったというのにも何か大切な意味があるはずだ。