独行
雲一つない夜空に一際輝く三日月だけが、僕の足元を照らし続けている。歩き始めてからもうどれくらいだったろう。言語化出来る明確な目的を持って動き出したのではなかった。ただ同じ場所に留まり続けていれば、精神が濁り出して物事をありのままの姿で捉える事が難しくなっていく気がした。隣には誰もいない。自分ひとりで歩き続けている。道はどこまで続いていくのだろう。僕が立ち止まるか、この道が途中で終わりを向かえない限り、そしてこの手足が動き続ける限り歩みが途切れる事はない。
優しい小川のせせらぎを聴きながら、街灯ひとつない林を抜けて進む。そこに柵が設置されているのは暗闇に慣れ始めた僕の目でも分かる。そして水面の黒い艶が、そこに水の流れがある事をも知らせてくれている。薄く茂った植物の間から、小さな点滅を繰り返す穏やかな光を視界に捉えた。その蛍は控えめでありながら、身体の大きさに見合わない強い光を放っている。強いというのは、ただ明るいとか眩しいという意味ではなく、闇に紛れた人間達に小さくても生きているという事をはっきりと示す強さだ。
向かい風だ。とても強い。雨も交じっている。大粒の雨を風が掴んで僕に思いっきり投げつけてくるような音がしている。雲行きが怪しくなる前に手に入れた薄い雨合羽は、少し前に風に飛ばされてしまっていた。身に付けている衣服にはたっぷりと雨が染み込み、同時に身体の熱も奪っていた。風を避けようと身体を伏せ気味に進もうとするのだけど、今度は背中に背負った荷物の重さが増した気がして足が思うように前に出なくなってきた。天気が悪くなる事は事前に調べて知っていた。しかしそれよりもずっと前から、何があっても進み続けると心に決めていた。
雨は唐突に降り止み、風は呼吸を忘れた人間のように静まり返った。雲は徐々に切れ始めて、その間から放射状に太陽の光が射し込んでくる。ずっと屈んでいた身体をゆっくりと起こす。曲がっていた背骨がひとつずつ元の場所に戻っていく感覚が心地良い。雨の匂いがまだたっぷりと含んだ空気を、身体の隅から隅まで送り届ける為に両腕を思いっきり広げて深呼吸をした。胸の筋肉が伸ばされて、目一杯酸素を取り込もうとしている。同じ肉体のはずなのに、全てが入れ替わったような不思議な心地がした。
道端の大きな岩に背をもたれる。雨粒に打たれ続けた岩の表面は適度に冷たい。僕は静かに目を閉じる。次に僕が目を覚ました時、そこに男がひとり立っていた。背格好は僕と同じだ。いや、背格好だけではない。それは僕の分身とでも言えばいいのか、とにかく瓜二つという雰囲気だった。雰囲気という言葉を使ったのは、完全に僕と同じ人間なのかどうか自信を持って言えないから。僕は彼を知っているような気がする。それは過去にどこかで出会ったからではなく、おそらくこれから出会う事になるであろう人間。彼はいつでもその道の先で僕をじっと見守っている。追い付かれないように先に立って距離を取っているのだけど、決して僕を置いて行ってしまう事はない。
目も開けられないような強い風の日も、月の光すら見えない暗闇でも、僕は心に優しい光を抱いてこの道を決して立ち止まらずに進み続ける。