白紙
右手で右耳を、左手で左耳を抑えてみる。周囲の音は聞こえなくなるけど、その代わりに心臓の鼓動が手首から伝わって鼓膜に響いている。心臓の音以外にも、微かに別の音が聞こえる。それは暑い夏に海水パンツで飛び込んで潜った水中で聞いた音だ。空気の小さく細かい振動が僕の耳と手の平の間に流れていて、連続した無機質な音になっている。いつもならもうベッドに横になっている時間に、液晶画面を見つめ続けていた。ただ見ているだけで何か文章が浮かんで、僕の両手10本の指を勝手に動かしてくれたらと願うのだけど、もちろんそんな事は起こり得ない。
額の汗を薄い水色のハンドタオルで拭った。風呂場の入り口を出たすぐ横には、プラスチックのかごに入れられた幾つものタオルが積み上げられている。毎日タオルの山の一番上の1枚を手に取って、部屋にいる時には首から掛けている。今の時期は外が暑くてエアコンの設定した温度に室温が下がった日がない。キッチンで火を使うと更に温度が下がらない。食欲を満たす為とは言え、カレーを作った日にはかなり熱が籠もってしまう。
英語の試験を受けに電車で出掛けた事があった。東京に来てから何度かその試験は受けたのだけど、毎回会場が変わって常に初めて訪れる場所に出掛ける事になった。簡単な試験ではなかったし、後から考えれば完全に準備不足だったのだけど、苦手な英作文の問題で単語ひとつ書けずに試験が終わった。厳密に言えば作文が出来ないのではなくて、お題の英文に出てくる単語の意味がどうしても分からず、何について書けばいいのかさっぱり分からなかった。何か書けばもしかしたら点数がもらえるかもしれないというのは、数打てば当たる的な発想なのかもしれない。それでも分かる単語から類推して書けばよかったと今更ながら思っている。
今までテストの答案用紙を白紙で提出した事はない。高校生の時に履修していた物理の授業は、生徒が少人数だったにも関わらず授業の内容がほとんど分からずに、テストはいつも悲惨な結果だった。先生の教え方が悪かったという事でもなかった。変わった先生だったけど、質問すれば答えてくれる人だった。問題はきっと僕自身にあって、その頃には授業の内容がその先社会に出た時に役立つ知識なのかどうかを考えていて、自分で役立つと思えなければ今一つ勉強に身が入らなかった。学生時代に詰め込んだ知識の全てが役立つと思いながら勉強している人ばかりではないだろう。目的を達成する為の手段として知識を蓄える事はあるのかもしれない。例えば受験勉強とか。
白い紙には何だって書ける。何色を使っても描ける。欠けている物があるなら付け足せばいい。何もないという事は、何も手に入れられないという事にはならないのだから。