今の家に引っ越す前に住んでいた部屋は、玄関ドアの外枠に結構な隙間が空いていた。僕はゴキブリが苦手で、部屋でそれを見つけた時には安心して眠れなかった。文章で書いているだけでも、あまり気持ちのいい生き物ではない。その点今の部屋の玄関は適度に重みのある鉄のドアになっている。上下左右どこを見ても隙間は空いていない。きちんと閉まっていれば、少なくとも虫がそこから侵入してくる事はないだろう。それでもこの先2度と会いたいとは思わないから、極力生活している場所は清潔に保ちたいと思っている。

 玄関を入ってすぐの所には、僕の背丈よりも少し低い鏡が置いてある。妻と同棲を始める時に、お互いの私物を持ち寄った結果、姿見が置かれる事になった。特別な用途はない。出掛ける時には毎回通り過ぎるし、キッチンに立って料理をしたり、風呂場やトイレから部屋に戻る時に何度も自分の姿が映っている。鏡に映る自らの肉体を見ながら、子育てに追われてトレーニングが満足に出来ていない事を歯痒く思っている。ただ実際に子育てに追いかけられているのではなく、トレーニングが出来ない理由付けをして安心してしまっているのだけど。

 自分という人間をかっこいいと思えるように生きたい。まだ幼過ぎる息子にも、大きくなったら「お父さん、かっこいい」と言ってくれたらきっととても嬉しい。でも「お父さんみたいになりたい」とは言ってくれなくてもいい。自分がどんな人間になりたいのかは自分自身で決めればいい。そうしなければきっと困難にぶち当たった時に、自分以外の誰かを責める事になるから。自分以外の誰かの責任にしたとしても、それは単なる自己満足で、誰かが身代わりになってくれるわけではない。

 自由という事の意味を僕が語るには、余りにも若過ぎるのかもしれないし、経験が足りなさ過ぎるのかもしれない。それでも30年以上生きてきて、自分の思い通りにならなかった事が幾つも積み重なってくると、自分の思い通りに生きるという事の難しさを痛感する。不自由さの最小単位があるとするならば、それは毎日の予定していた出来事を予定通りにこなせない状態の事だろうか。ただやると決めた事を結局出来ていないというのも、大なり小なりそこに自分の意志が溶け込んでいるはずだから、むしろ自由という概念に含まれてもいい気がする。

 難しいようで、実はとてもシンプルな概念。真に自由に生きるというのは、色々な方向からの抵抗に合うであろう事を覚悟する生き方。それでもそれらを乗り越えて行くという強い意志。僕はそんな人間でありたいと思う。君には僕の姿がどう映っているだろう。

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