分からず屋

 とても小さな茶色い蜘蛛が、ガスコンロの横の白い壁に張り付いている。最初に見たときは、今日日中に作っていたカレーが飛んで乾いたのかと思った。でもコンロからは距離があるし、カレーが飛び散るような動きはしていないはずだ。実際に近付いてよく見ると、それは汚れではなく蜘蛛だった。僕は虫が苦手だ。大きさは関係ない。予想の付かない動きでいつも驚かされる。プラスチックのカップを素早く被せて、窓から外に放り出す。放物線を描いて飛び出したそれは、蒸し暑い夏の空気に溶けてしまったかのようだった。

 苛ついていたのは、酷暑のせいではない。誰かにその責任はあるのかもしれないが、誰かのせいにしたところで何かが解決するわけでもない事は分かっている。分かっていると頭で考えても、感情というのは蓋の緩んだ瓶から少しずつ漏れ出てくるみたいにしつこく蘇ってくる。世間体を良く保つというのが大人になった証なのだとしたら、僕はきっと大人という枠に擦りもしていないと正直思う。でもそんな人間でも親として子を育てられないとは全く思わない。むしろまともなのは自分ではないかとさえ思う時がある。

 それは単なる驕りかもしれない。但し僕は特別な才能や地位を現時点で手にしているとは思っていないから、驕っているのではないはずだ。100か0かで全てが決まるとも思っていないけど、湧き出た感情というのを押し殺してしまう事が正解なのかは疑問だ。もちろんそれを発散する為にわざと物や人を傷付けるのは正しいとは言えない。でも正直な気持ちを誰かに打ち明ける事が必要な時もある。言葉にしてみると、どれだけ強いもしくはそうでもない思いなのかが、ひとりで考えるよりも鮮明に分かる。分かりたくないと思っていた事も含めて。

 聞いてくれる人がいるというのはとてもありがたい事だ。ついつい我を忘れて感情的になってしまった後には、自分でもとても後悔する事がある。後悔してそれでも側にいてくれる事に感謝し、包み紙を崩さずにゆっくり開けるように頑な心を解いていく。もっといい人間になろうと思うのと同じくらい、自分という人間の本質はずっと変わっていないとも思い知らされる。変わらないからといって、何もしなければ僕は肉体的にも精神的にも退化する一方だから、何度でも思い直す。

 「こういうものなんだ」と誰かに言われて「はい、そうですか」とすぐに言えないのは素直ではないのか。自分の感情や思いに従順な人間を素直と言うならば、僕は素直だと言える。正直でいたいと思って話した事も、他人にとっては不快な事があるだろう。ただ、正しい事をしている人間が、間違った事をしている人間の顔色を伺っている状況を、僕は健全だとは全く思わない。でも僕には世界を変える大きな力はないから、一生懸命燻り続けていつか大きな火種になるようにこれからも生きていく。

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