話すより素直に

 遠い記憶を遡る。大学生3年生の時に、1年間カナダに留学していた事は以前このブログでも書いた。カナダは夏も冬も日本より湿気が少なく、冬の厳しい寒さを除けば過ごしやすい土地だった。それは確か冬だったと思う。僕らは車に乗せてもらって出掛けていたはずだ。少し厚着をしていたような気がする。どこかのお店に入った。その時はもう太陽は沈み、暗闇が僕らを包んでいた。ログハウスのような建物だったと記憶している。何せ10年以上前の事だから店の詳細な様子は覚えていない。

 薄暗い店内ではお酒を飲みながら談笑する声がいたるところから聞こえてくる。事前に友人から聞いていた話では、どうやらカラオケもできるお店らしかった。日本のカラオケならいざ知らず、外国のカラオケというだけで何だかマイクを握るハードルをとても高く感じた事を覚えている。素人なのだから、細かい事は気にせず歌ってしまえばよかったが、その時はずっと遠慮しっ放しで最後まで1曲も歌わずに、適当にビールでも飲んで帰るんだろうなと思っていた。

 しばらくすると一緒に来た友人が歌うと言って、選曲し出した。この流れで行くと最終的に自分も歌う事を避けられないと思って、口には出さなかったが何を歌おうかと考え始めた。当時から歌う事自体は好きだったが、知らない人の前でいきなり歌える程垢抜けてもいなかった。日本人がいきなり前に出てきて、流暢でもない英語で歌った曲など誰が聞いてくれるんだろうと心配していた。先に歌い出した友人の曲もろくに耳に入ってこない状態で考えている間に、いよいよ自分の番がやって来た。

 恐る恐る僕はマイクを握る。日本のカラオケのように画面をタップしながら曲を選ぶのではなくて、曲ごとに番号が書かれた分厚い冊子をめくって目当ての曲に辿り着かなくてはならない。探す間も他の客がこちらをずっと見ているようでなぜか焦った。そしてBackstreet Boysの「I Want It That Way」の番号をリモコンで送信した。切ないイントロが流れ始める。最初のフレーズは恥ずかしくて黙っていた。流石にここまで来て歌わないのはもっと恥ずかしいので、英語の授業でなら自信を持って声に出せた英語より、いくらかトーンダウンした発音で何とか最後のフレーズまで歌い終わった。

 客の反応はどうだったかというと、ぱっとしていなかったように思う。皆お酒を飲んで酔っ払っていただろうし、ライブハウスでもないから目的は人それぞれだ。カラオケが好きではない人もいたかもしれない。日本のカラオケなら満足するまで何曲も歌い続けるのだけど、当時カナダにいた僕にはそこまでの気力はなかった。同じ機会がまたあるかどうかは正直分からない。前回よりはもう少し落ち着いて声を出せるとは思うけど、今のところそのチャンスは訪れそうにない。

 年末からカラオケの部屋代として定額を払えば通い放題になるサービスを使っていた。毎週末、午前中に出掛けてはひとりで歌い続けていた。今はというと、前述のサービスも解約してしまってカラオケ自体も行かなくなった。世の中の状況を考慮した上で仕方ないと言えばそれまでだが、何とかカラオケの雰囲気でも味わえないかと思ってアプリを探してダウンロードした。無料で歌える曲をひとつ選んで再生する。スマホのマイクが僕の声を拾い、イヤホンからそれを聴きながら歌う。昔行ったひとりカラオケの感覚が蘇り何だか嬉しくなった。

 試しに1ヶ月分課金して、歌い放題に申し込む。息子を風呂に入れた後にバスタオルを肩に掛けたまま1曲歌った。息子にミルクをあげていた妻によると、僕がサビで絶唱するのを聞いていたのか息子は驚いて唸っていたそうだ。次からは時間帯とタイミングを考えねばと思いつつ、やっぱり歌はいいなと改めて感心した。

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