光の中にいる
大人と子ども。生まれてから過ごした年月の差。体格の差。経験の差。その差は大抵は大人が子どもを大きく引き離す事が多い。子どもが大人に比べて、余りにも大きなアドバンテージとして持っている物はないか。それはおそらく、きっと多くの人が同意してくれると思っているけど、彼らの若さと可能性だ。子どもと接していなくても容易に想像できるだろうし、実際に子ども達を前にすると何とも言葉では言い表せない眩しさを感じる。光の中から飛び出してきたかのように走り回っている子ども。草原に静かに腰を降ろし、夢中になってひとりで遊んでいる子ども。
しばらく会わない間に身長が伸び、雰囲気も落ち着いたような気がしていた。実際のところ、自分に向かう視線をあまり感じる事が少ないと最初は思っていた。よく考えたら大人だって久しぶりに会う人に対しては、大なり小なり様子を伺いながらコミュニケーションを取る傾向がある。経験が豊富とされる大人がそうなのだから、子どもが緊張したり恥ずかしがったりするのはむしろ自然な事だろう。大人はいつも考え過ぎて、子どもはいつも無鉄砲なところがある。
考え過ぎないで話しかけてみればいい。大人同士ならくだらないと言って相手にすらされない冗談やいたずらも、子どもに取っては奇抜に映って興味を引くかもしれない。うまく行くかどうかは、自分が決めるのではなくて子どもが決めるのだから、行動する前から考え過ぎない事も大切だ。本当に楽しい時には、具体的な言葉でその感覚を説明するのは難しいのだから、詳細には拘らず童心に帰って自分も一緒になって遊べばいい。案外自分が大人になり切れていない事にも気付くだろうから。
可能性と言う名の、磨けば光り輝く原石を知らずに抱えて生きている。ほぼどんな形にでもそれは姿形を変えられて、迷った時には空の星を見上げるように、寂しい夜にはほんのりと心と身体を温め、つまずきそうになったら静かに足元を照らすような優しい光だ。大人になった僕もまだ手放していないはずのものがきっとある。子ども達と関わる時間は、いつもそう思わせてくれる不思議な時間だ。自分の子どもだけではない。甥っ子や姪っ子、仕事を通じて出会った子ども達と過ごした時間も掛け替えがない。
何かを始めるのに遅過ぎる事はないと言う。遅いとか早いとかは、他人と比べるからできる尺度であって、湧き立つように何かを始めたいという心の動きを誰も咎めるはできない。大人も子どもも同じだ。混じり気のない澄んだ気持ちを、光の泉からそっと手のひらですくうように、互いに素直な感覚で生きる。失ったのでもなく、最初から持っていなかったのでもない。忘れてしまったのなら何度でも思い出せばいい。深い影が見えても、眩しい輝きがいつもそこを満たしている。