大きな木の下で

 畑に囲まれたながらかな丘の途中に、その大木は枝を目一杯広げて夏の日差しを遮っていた。畑の作物は収穫を終えてしまったのだろうか。農家の姿も見えない。雑草が短く刈られたのが最近のようで、なぜかそこに人の気配を感じずにはいられなかった。直前でコンビニに寄って線香を探したけど売り切れとのこと。何も買わずに店を出て車で再び走り出した後に、お酒のひとつでも買えばよかったと思った。結婚の許しも、孫が生まれた事も、何ひとつ面と向かって報告はできなくなってしまったけど、僕はお酒が強くはないから飲み明かしたら先に眠ってしまうだろう。

 熱い湯に浸かった後の火照りは完全に冷めていた。出発してすぐに道の駅に寄って、ご当地で作られたと書かれたラベルのサイダーを買った。レンタカーには幾つもドリンクホルダーがあるし、自動のスライドドアも装備されている。ボタンひとつで勝手にドアが開いて車に乗り降りするのは、さながらセレブにでもなった気分だ。一緒に買ったカフェラテを手で持ちながら、小雨の中を車に急いだ。ベビーシートの中で静かに眠っているとは言え、まだ身体は小さく長時間の旅は負担が大きい。なるべく早く家に帰らねばと気を張っていた。

 運転席以外に乗る車での移動時間は、僕に取ってあまり充実しているとは言えない。なるべくならハンドルはずっと自分で握っていたい。自分の車でなければ、そこは妥協せざるを得ないけれど。そんな時でも自分ならこうするとかをずっと考えている。考えている素振りはもちろん見せない。乗客に心配されながら運転するタクシー運転手の不安に似ているのだろうか。安全に目的地まで送り届ける、もしくは乗る前と一切変わらない様子で運転席から降りてくる事を念頭に走り続けた。

 カーナビに表示される目的地までの距離。その数字が走りながら少しずつ短くなって行く。チラチラとそれを横目で見ながら、視線を遠くに戻し走り続ける。そしてまた時折数字を見ながら、車の運転を純粋に楽しむにはどういう意識でハンドルを握っていればいいかを考えてみた。目的地までの距離を想定し続けるのは果たして正解なのか。今まで自分の車を購入した事がないので、レンタカーを借りて乗るのがほとんどだ。同じ車格でも、毎回違う車種が用意される事は珍しくない。車種が違えば、乗り味も当然同じではない。

 どこかに辿り着くという目的を完全に省いてしまったら、残るのは自分と車のやり取りだけになるのではないか。車の動きを全て自分でコントロールしているという感覚は、乗用車ならほとんどない。でもハンドルやブレーキやアクセル、そして簡単にドライブモードを選択したりパドルシフトを操作してギアチェンジは行えたりする。スポーツカーとは言えなくても、こういう操作をすると車はどう動くというのを確かめるのは、決して退屈な時間にはならない。あたかも自分の肉体が広がって、車がその一部となっているように感じる時、どこまでも走り続けたくなって再度アクセルを踏み込んでいる自分がいる。

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