湯煙に巻く
闇は深く、道路を照らす街灯もまばらにしか見当たらない。ヘッドライトの先の景色は漆黒の夜だけだ。背の高いレンタカーに乗って、連続する適度なワインディングから受ける重力に身悶えしながら走り続けている。明かりのほんの少し先の空間は、何もかもを取り込んでしまいそうな静寂と、時折聞こえる野生動物の鳴き声だけで満たされていた。そうこうしている間に、少しだけ開け放った運転席の窓の隙間から吹き込む風に硫黄の香りが混ざり始める。それは短い間に益々強くなっていき、湯煙が立ち上る街の様子を想起させた。
街に近づくと、路面の凹凸を踏み越えるのに合わせてメロディーが聞こえ出す。熱い源泉を木の板でかき混ぜる動きと同時に歌われている曲。訪れた事がなくても、曲だけは聞いた事があるかもしれない。都心からのアクセスは決して良好とは言えない場所にあって、それはさながら陸の孤島のようでもある。手短に済ませるのなら、近くの銭湯などがないわけではない。自分が浸かっている液体が、果たして本当に地下深く温められて湧き出してきた源泉なのかを知らないでいる事も多い。
浴衣に身を包み、帯を腰で落ちない程度に引き締め、火照った身体を風に晒しながらゆっくりと歩いて行く。そこには確かにこの街独特のリズムが刻まれていて、去る人達の後ろ髪を引き再び舞い戻るように誘うのである。硫黄の匂いが所々に立ち上る湯気に混じって辺りを包み込んで、穏やかではない数の人が通りを埋めている。陽が落ちると湯畑はライトアップされ、湯気の白はより一層その存在感を強く濃く主張している。
台所に置かれた数個のカップ麺。気圧が影響しているのだろうか。蓋の表面が膨らんでいる。それほどの標高に位置しているからか、東京の酷暑はそこでは全く感じられない。布団を被ったのは春以来だった。その涼しい日中に浴場に出掛ける。源泉が掛け流しになっていて、人肌では浸かっていられない程の熱さだ。蛇口は2つ。浴槽内と洗い場にひとつずつ。蛇口を捻って冷水を注ぐ。掛け湯は熱過ぎて辛い。すくったお湯の中にホースで冷水を注いで掛かった。かろうじて湯に浸かれる温度まで下げられたので、足から静かに入ってみる。そのままの速度で水中の腰掛けに尻を落とした。
湯上りの身体に風が心地良い。汗は止まらないのだけど、ドライヤーの代わりに置いてあったうちわを頭上で扇ぎ続けた。乾きかけた髪の毛と、芯に熱を抱いたままの身体。脱衣所には42度以下が良いと書かれているのに、実際はそれ以上に熱いお湯。訪れる人の足を止める事のない街の魅力。引き連れた湯気も剥がされて、いつかは皆それぞれの場所に帰って行く。いつだってそこは特別な場所であってほしいから。