内か外か
子どもが生まれた後、どちらの両親に先に孫の顔を見せに行くのが正解なのか。そもそも正解などあるのか。順番はどちらが先でもいいと思っている。「内孫」や「外孫」というこれまであまり聞く事のなかった言葉を久しぶりに耳にしたものだから、未だにそんな言葉が使われている事に失望しているところだ。苗字を継いでいるから家の中、継いでいないから家の外の人間?根拠もなく、ただ昔の風習だからと言うだけなら、そんな言葉は使われなくなってしまって全く構わない。
ネットで「内孫」と入力して検索すると、外孫より内孫とか内孫なのにどうたらこうたらとか、まるで苗字を継いでいるいないで優劣があるかのような話題がちらほら目に付く。本来は優劣などないはずだ。子どもは親も祖父母も選べないのである。誰だって自分の意志で選択して生まれてきたのではない。ただ少しずつ時間を掛けて環境に慣れ、それを受け入れて生きてきた。でも大人になった途端に選り好みをするようになってしまうのか。苗字がどうであろうと、孫は孫だ。愛してくれるのなら、廃れた風習に寄り掛からずに同じように愛情を注げばいい。
僕は結婚しても苗字を変えなかった。そして生まれた息子と妻は僕と同じ苗字を名乗っている。僕は実家から遠く離れた東京に住んでいるし、将来実家に戻って家を引き継いでそこに住み続ける事はしない。苗字を継いではいるが、実質実家から出て「外」で暮らしている。じゃあ僕の息子は「外孫」になるのか。そう決めたい人達は好き勝手に呼んでいればいい。でも自分で決めた決断を恥じる事はない。男女平等と声高に叫ぶ割には、昔の父系家族の細かな慣習が無意識に人間の言葉や行動に影響を与えて続けているように思える。
ただの言葉だと言う人もいるだろう。だがその「ただの言葉」が人間の自尊心や前向きな気持ちを打ち砕く事を、僕は身をもって経験しているから、ただの言葉だとは思わない。そして本当にそれが「ただの言葉」なのかどうかを判断するのは言われた方の人間だ。総じて想像力が足りない人間が他人を傷付けるように、何となく使っている言葉で血を流させる事は大袈裟ではなく現実として起こり得る。血が流れるというのは比喩的な意味でもあるから、目には見えなくても言葉を浴びせられた人間が苦しむ事もちろんある。
言葉はただの文字でも音でもない。それは口から発せられ空気を振動させ耳から入って心を動かす。心は身体と繋がっているから、身体も素直に反応する。言葉は力を奪いもするし与えもする。僕自身が言葉をまだ完全に使いこなしていないし、完全な言葉を使う事など死ぬまでないかもしれない。でもそうなる努力を怠れば僕は人を傷付けながらずっと生きる事になるかもしれない。そうはなりたくない。内も外もないところから生まれて、僕らは少しずつ違って行く。