忘れた暑さ
後どれくらい正気でいられるだろうか。部屋を出る前に汗を乾かして、いつものようにハンカチをポケットに詰め込んだ。冷たい麦茶をビールを飲むのに使っていた大きめのグラスに注ぐ。それを2杯時間を掛けて飲んで喉を潤した。再度汗が滲み出すのは時間の問題だと分かっていたけど、その予感を抱えたまま玄関のドアを開けた。マンションの入り口までは日陰になっている。それでも植えられた木々の隙間から太陽の熱だけが漏れてきて、肌にまとわりつく嫌な感触が残る。余計な事は考えずに歩き出したはずなのに、口から出た言葉は「暑いっ」だった。
目的地は遠くない。水分補給は充分にして出掛けた。東北沢駅を目指して歩く。今日は雲がほとんどない。太陽の光は容赦なく照り付けて、吸い込む空気も熱い。アスファルトは熱せられ透明な蒸気を吹き上げているみたいだ。サンダルの底から熱が伝わる。底が擦り切れて穴が開きそうなサンダル。去年の今頃はお盆の小旅行に浮かれていた。今年は去年までとは生活が一変している。変わらないのは夏の暑さだけだ。去年の夏が終わった後に忘れていた季節がまたやってきた。
工事現場を通り過ぎる。甲高い叫び声が大型のダンプカーを誘導していた。決して広いとは言えない道幅の道路に出ようとしている。ヘルメットを被ったその人の声が響いていた。先に通ってくださいと手で合図をされて、それに従って通り過ぎた。小田急線が地上を走っていた頃の下北沢を知らない。今の下北沢を知らない人が、しばらく経てばそのうちに出てくるんだろう。街は常に変わっていく。暑い夏の日も、季節が変わって気温が下がっても、知らないだけで変化し続けている。
今日は家の近くの小児科を初めて受診した。鼻が詰まっているような様子だったし、世田谷区から予防接種の案内が届いたけど、種類が幾つもあるし順番や接種時期が分かりづらかったので、確認も含めて出掛けた。僕は在宅勤務の休憩時間に後から追いついたが、既に診察が終わって念の為の薬を受け取っているところだった。状態は特に問題なかったので一安心。ついでに予防接種の予約も済ませて帰宅の途に着いた。
子どもは大人が思っている以上に頑丈な身体をしているのかもしれない。そして子どもは大人が想像している以上に繊細なのかもしれない。両手両足を広げて大胆不敵な姿勢で眠っている。誰かに何かに気を使って、自分の本心を隠して機嫌を窺う、大人には到底真似のできなさそうな態度。態度というより本能。人間はこんなに自由で可能性に満ちた状態で生まれてくる。そして自分自身もそうやって生まれてきた人間だ。握り返したその手からは、生きようとする力強い意志を確かに感じる。夏の暑さはいつも忘れた頃にやってくる。