正しい事
世の中の全ての事が、正しいか間違っているかを自分自身で確かめる事は、時間的にも肉体的にも精神的にもほぼ不可能だ。人間がそれを行うには、寿命があまりにも短すぎる。そして正しいのか間違っているのかで悩んで考えている間にも、誰にとっても平等に時間は容赦無く過ぎ去っていく。頭の中で考えた事は、実際に行動してみなければ事実かどうかは確認しようがない。しかし時間の経過とそれに伴う肉体と精神は、人間の行動にも制限という変化を与える。
僕が今現在正しいと思っている物事の中で、実際に自分で行動して本当かどうかを確かめた事がどれくらいあるだろう。自分で行動するより、人から教えられたり本を読んだりして得た知識を何度も擦り込んでいくうちに、いつの間にかそれらが正しい事としてほとんど定着したと思う。学校の先生が言っているのだから間違いない、とか専門家が書いている本の内容なら事実と寸分違わないだろう、と言った具合に。有名人や政治家がこう言ったとメディアが報道する事だったり。
あくまでも僕の記憶している限りということにはなるが、学校で教えられたのは、もしくは先生達が教えようとしていたのは、各問題に対する唯一の正解だったと今振り返ると感じる。ひとつの問題があって、それに対してひとつの正解があるという事を否定はしないが、世の中にはそう単純ではない物事が溢れている。明確なたったひとつの答えがないからこそ、人間は頭を使って考えて行動し、結果に一喜一憂しながら反省を繰り返してより良い自分を模索していく。画一的な教育というのは、うまく立ち回れる人間にとってはいいかもしれないが、そうでなければ苦しいだけだ。
学校へ1日も休まずに通い続ける事と、事情があって不登校になって学校に行かない事とで優劣を付けられるだろうか。皆勤賞なんて言葉があるが、本来それは自分で決めて始めた事を途中で辞めずに続けたことを認めるべきものであってほしいと思う。学校に行った行かないに焦点を合わせるのではなく、行動する事を決意して継続したのかどうかを見てほしい。人間が何に興味を持って、どんな行動を取るかは一律に比べられないし、比べられないというのが人間性の本質だと思っているから。
僕が見聞きした全ての事が正しいのかそうでないのかを確かめるのには、僕の身体ひとつでは到底追いつかない。それができたとして、その時には僕はもうきっと長くは生きられないほど肉体的に時間が経ってしまっているだろう。だから人の意見を聞き、本を読んで、時には自分の考えている事を口に出して伝えてみる。そうすれば自分を客観的な視点で俯瞰する材料を得られる。迷った時にはそうすればいい。但し最後の最後はいつも、自分の感覚に従うしかないのだ。その感覚をいつも信じるんだ。