区切り
下北沢でタクシーを捕まえる事はとても簡単だと思っていた。特に茶沢通りまで出さえすれば、手を挙げればいつでもタクシーが止まってくれると思っていた。つまり平日昼前の茶沢通りでは、実はタクシーはそれほど走っていない事に気付く。世田谷区からタクシーの料金にも使えるクーポンが届いたので早速使ってみる事にした。行き先は病院。息子の1ヶ月検診の為に、僕は抱っこ紐で彼を抱え妻と一緒にタクシーに乗り込んだ。妻が運転手に行き先を告げると、その黒い車は静かに走り出した。
病院に着いた時、僕は酷い車酔いに苦しんでいた。なぜだろうと考えてみる。スマホをずっと触っていたわけではない。誰かから連絡がないか数回確認しただけだ。僕が座ったのはタクシーの助手席の後ろ。運転手の後頭部がはっきりと見える。そして助手席のヘッドレストの後ろ、すなわち僕の正面にはモニターが設置され、広告を含む色々な情報が途切れなく流れ続けていた。意識的にその画面を見ようとしたわけではないが、結果的に自分の正面にあるので気付いた時には視線がそっちに行ってしまう。それを繰り返し見ている間に少しずつ酔っていたのかもしれない。
そんなわけで酔って少し気持ち悪いまま病院の入り口で検温を受けて、その後にアルコールジェルを手に塗り付ける。アルコールを揉み込みながら奥に進んで行き、診察券で受付を済ませ順番を待っていた。診察開始の1時間以上前に着いてしまったので、僕はずっと椅子に座って酔いを覚まそうと関係のない事を考えて気を紛らわそうとしていた。しかし思った以上に酔っていて、中々気分は良くならない。せっかく息子が生まれてからの一区切りで朝から気合が入っていたのに少し残念だ。
僕の車酔いはさておき、小児科の前の長い廊下で小一時間座って待ち続けた。僕らの他にも赤ちゃんを抱いた人達が続々とやってくる。必要な書類は全て提出したのだけど、先生達の休憩時間なのだろうか、診察開始は定刻で決められていた。息子はあちこちをキョロキョロ見ながら小さく声を発していた。生まれた後退院してからも数回来ているが、覚えているのかどうかは分からない。ただじっと1点を見つめたり、行き交う人達を目で追ったりしている。もしかしたら彼の瞳は、大人の目には映らない何かを捉えていたのかもしれない。
1ヶ月前に無事に生まれたのと同時に、妻と同じ日には退院出来ないと知って一生分と言えるくらい落ち込んでいた。自分の事を元々楽観的だと思い込んでいたのに、その時は驚くほどネガティブだった。しかし息子に会う時に覇気のない顔では会えないと、時間を掛けて必死に気持ちを立て直した。初めて彼をこの腕に抱いた時はあんなに小さくて軽かったのに、今はもう沐浴のベビーバスですら窮屈になった。たった1ヶ月しか経っていないけど、よくこの1ヶ月間元気でいてくれたと思うと涙が抑えられなかった。僕はこんなに泣く人間だったかなと、涙が流れる度に思うのだけど混じり気のない素直な感情なのだからありがたく受け止めよう。ありがとう、僕は君の父親でいられてとても幸せだ。