力の根源
悪い癖だ。筋肉痛がないとトレーニングをやった気がしないでいるのは、全然根拠がないにも関わらず筋肉に刺激が伝わっていないんじゃないかと思ってしまうから。でも筋肉痛の有無と、刺激が加わっているかどうかは別の話というのは大抵の本や雑誌に書いてある。だから筋肉痛が思った程ない事ばかり考えていても仕方ないのだけど、今日の朝は上半身がバキバキだった。バキバキというのは、つまり筋肉痛になっているという意味だ。やはり昨日久しぶりに肉体を酷使したのがかなり効いているようだった。
ベストなコンディションとは言えない状態でも、僕も今日は腕立て伏せをする。1日やらなかったら、次はまたどれだけ日数を空けてしまうかが心配だ。継続は力なりというけど、力になるのはむしろ継続しようとして実際に継続して行動したという自分の中での確かな実感ではないだろうか。継続していれば筋肉は変化していくが、トレーニングを死ぬまでずっと続けられるかどうかは誰にも分からない。もしかしたら気が変わって他の事に打ち込もうとするかもしれないし。
時間が経てば体型も変わるし、食べる物も変わっていくかもしれない。今の状態が全く変わらない事の方が少ない。変化がないように見えても、何もしなければ人間は環境に適応するという名目で色々な機能が衰え始める。生まれた後は、誰もが避け難くいつか来る「死」へ知らず知らずのうちに向かっている。宇宙の成り立ちに比べれば、遥かに短い時間を生きる僕にとって変わらず残るのは、生きようとする意志だけだと思う。昨日より少しでも良い人間になりたいと願う心。それさえあれば仮に僕がトレーニングをしていなかったとしても、胸を張って最後まで気高く生きられると信じている。
上京する前のこと。働いていた職場の近くに餃子の王将があった。歩いてすぐの距離だったので、昼の休憩や退社した後に頻繁に通っていた。いつも鳥の唐揚げとチャーハンを頼んで、その日も同じメニューを注文しカウンターでひとり食べていた。すると隣に見ず知らずのおじさんが座った。白い顎髭を生やしていて、肌は茶色く髪の毛はボサボサだった。頬は痩せていて、もちろん初対面だ。初対面だが、ただ隣に座っただけのおじさんなので僕が声を掛けることはなかった。
しかし突然、そのおじさんが話しかけてきたのだ。呆気に取られたが、無視する理由もないので適当に相槌を打っていた。そして一方的な流れはなぜか将来何をやりたいのかという話題になった。僕は確かその時「何をやるかは決めてないけど、やっていて自分が成長していると感じられる事をしたい」と生真面目に応えた。それを聞いたおじさんは「その気持ちがあれば何だって出来る!」と不格好な笑顔を僕に見せた。ちなみにそのおじさんが言うには、彼は当時の僕の上司の知り合いで小さな頃にサッカーを教えた事もあるというので、その後上司に聞いたら心当たりがないと言われた事も今思い出した。
顎髭おじさんが何者だったのかはきっと永遠に分からない。これを書いていて思い出しただけだから。でも僕の気持ちは当時から変わっていないんだと気付いた。僕が生きるその根源には「成長したい」という気持ちがいつもあるんだと。小さな息子と接しながら、その思いは益々強くなっている。そして願わくば、僕を支えてくれている人達を少しでもより幸せにできるように。